行書体
行書
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行書の創始者:「行書なる者は、後漢の劉徳昇の作る所なり。行書は即ち正書の小訛、務めて簡易に従い相聞流行す。故にこれを行書という。王愔云う。晋世以来、書に工みなる者は、多く行書を以って名を著すと。鍾元常行狎書を善くす、是なり。その後、王羲之・献之並びにその極に造る。」(行書の創始者を劉徳昇としている。#書体の創始者の行書で解説)…『書断』 「行書は『蘭亭序』および王羲之の諸帖を第一とし、謝安・王献之の諸帖が之に次ぐ。(趣意)」(原文の大令とは王献之のこと)…『続書譜』 「唐人の行書は、皆な二王より出て、宋人の行書は、多く顔魯公より出づ。趙子昂云う、用筆は千古変らずと。只だ宋人を看て亦た妙たるも、唐人は得難きなり。」(二王よりの唐人を尊重する伝統的な見解)…『鈍吟書要』
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行書
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いわゆる行楷であり、王羲之のような点画の連綿を殆どおこなわない。強いて古人の書風に近いのは張瑞図である。すべての点画が直線で構築され、時に繊細に時に暴れた書風を放出し、観る者を圧倒する。また、墨色と潤渇の難易度が極めて高く、芳翠自ら創意を重ねた書体であったためか弟子にも習うことを禁じ、自らの書風を模索するよう指導したと言う。
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行書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 16:24 UTC 版)
唐の張懐瓘の『書断』上巻に、「行書なる者は、後漢の劉徳昇の作る所なり。即ち正書の小偽、務めて簡易に従い相聞流行す。故にこれを行書という。」とある。正書とは楷書のことであるから、楷書から行書が生まれたとしているが、今日の出土文字資料の分析によれば、行書は楷書が行われる以前に草書と隷書の長所をとってこの時代に発生したとされている。ただし、これは後の行書と区別して、行狎書(ぎょうこうしょ、行押書(ぎょうおうしょ)とも)と称され、西域出土の残紙類に見られる。また行書は劉徳昇の作というが、その書は残存しないので不明である。
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行書
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蘭亭序(らんていじょ)- 永和9年(353年) 詳細は「蘭亭序」を参照 集王聖教序(しゅうおうしょうぎょうじょ)『集字聖教序』ともいう。唐の太宗が玄奘三蔵の業績を称えて撰述したもので、これに高宗の序記、玄奘の訳した般若心経を加え、弘福寺の沙門懐仁(えにん)が、高宗の咸亨3年(672年)12月勅命を奉じ、宮中に多く秘蔵していた王羲之の遺墨の中から必要な文字を集めて碑に刻したものである。字数は約1800字で、原碑は現存する。羲之が歿してのち、300年後の仕事であるので困難も多く、偏と旁を合わせたり、点画を解体して組み立てた文字もあり、完成するのに25年を要したといわれる。 興福寺断碑(こうふくじだんぴ)唐の興福寺の僧大雅が、羲之の行書を集字して、開元9年(721年)に建てたものであるが、碑は上半分を失って700余字を残しているため、半截碑ともいう。また、文中、「矣」の字を「呉」と誤っているので、呉文断碑ともいう。明の万暦年間に長安城内の草中より発見された。 喪乱帖(そうらんじょう)王羲之の手紙の断片を集めたもので、『喪乱帖』8行、『二謝帖』5行(1行ずつの断片を集めたもの)、『得示帖』4行の計17行が一幅になっている。書簡の最初の行に「喪乱」の句があるのでこのように呼ばれる。縦に簾目(すだれめ)のある白麻(はくま)紙に、双鉤塡墨で模したものであるが、肉筆と見違えるほど立派である。東京・三の丸尚蔵館蔵。右端の紙縫に「延暦勅定」の印3顆が押捺されているところから、桓武天皇の御府に既に存在していたことが分かる。 孔侍中帖(こうじちゅうじょう)『哀禍帖』(あいかじょう)・『九月十七日帖』・『憂懸帖』(ゆうけんじょう)の3帖から成る。一括して『九月十七日帖』また『孔侍中帖』という。『喪乱帖』と同じ紙で、双鉤塡墨。また『哀禍帖』と『九月十七日帖』との間の紙縫に、同じく「延暦勅定」の印3顆が押捺されている。現在は前田育徳会蔵。国宝。 快雪時晴帖(かいせつじせいじょう)「羲之頓首」に始まり、時候の挨拶に続いて相手の安否を気遣い、要件を済ますといった、形式通りに書かれた手紙文3行と「山陰張侯」(宛名)の4行からなる。清の乾隆帝が、王献之の『中秋帖』、王珣の『伯遠帖』とともに珍蔵し、その室を「三希堂」と名付けたことで著名(『三希堂法帖』参照)。台北・国立故宮博物院蔵。 平安帖(へいあんじょう) 姨母帖(いぼじょう) 奉橘帖(ほうきつじょう) 『喪乱帖』 『孔侍中帖』(『哀禍帖』) 『孔侍中帖』(『九月十七日帖』と『憂懸帖』)
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行書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 07:59 UTC 版)
行書に関しては楷書と異なり、書の達人として王羲之に匹敵するとされており、文句なしの賞賛を受けている。遺墨が多く残り、『劉中使帖』、『争座位帖』、『祭姪文稿』が特に有名である。
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