そう‐がき〔サウ‐〕【草書(き)】
そう‐しょ〔サウ‐〕【草書】
草書体
(草書 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/06 07:40 UTC 版)
- ^ 伊藤峻嶺 p.439
- ^ L・M・ビジョルド「戦士志願」小木曽絢子日本語訳
- ^ 株式会社インプレス (2017年1月11日). “古い地震史料のくずし字をユーザーがテキスト化する「みんなで翻刻」、京大・古地震研が公開”. INTERNET Watch. 2022年9月15日閲覧。
- ^ 笠原一輝 (2019年7月11日). “Google AIで日本史研究者やマニアが狂喜乱舞する「くずし字」の翻訳ツールが開発”. PC Watch (インプレス) 2019年7月11日閲覧。
- ^ “古文書を解読できるスマホアプリ 凸版印刷が開発 くずし字対応AI-OCRを活用”. ITmedia NEWS. 2022年9月15日閲覧。
- ^ a b “古文書「くずし字」、アマチュア参加で現代の活字に…史料解読の一助に”. 読売新聞オンライン (2021年10月11日). 2022年9月15日閲覧。
- ^ “くずし字学習支援アプリ - KuLA クーラ”. アプリで学ぶくずし字 くずし字学習支援アプリ - KuLA クーラ. 2022年9月15日閲覧。
草書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 07:25 UTC 版)
「漢興って草書あり。」(この草書とは前漢時代の章書とされている)…『説文解字』序文 章草の創始者:「按章草,漢黄門令史史游所作也。」(章草は史游が作った)…『書断』 草書の創始者:「伯英の章草は崔・杜の法を学んで之を変じ以て今草を成す。字の体勢一筆にして成り偶ま連らざるあるも血脈断へず。」(張芝が今草、つまり現在の草書の創始者であるとし、章草が単体であったのに対し、今草は連綿であることを表現している)…『書断』 「張の草には猶お当に雁行すべし。」(これは王羲之の言葉を孫過庭が引用したもので、張芝の草書は王羲之よりも優れているとしている)…『書譜』
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草書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/21 14:35 UTC 版)
どんなに作品にし難い詩文でも、華麗な作品にしてしまう「剛腕」を発揮するのが芳翠の草書であろう。孫過庭の「書譜」を土台にあらゆる古典を渉猟し、研鑽を重ねた草書は六十代を迎えて凄絶さを増す。隷草雑体作品「拈華微笑」や仮名のちらし書きを応用した「猿橋」といった新機軸を発揮したものや、大字作品を精力的に発表するなど草書ファンは多い。
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草書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 16:24 UTC 版)
前漢に隷書の略から章草が生まれ、章草が隷意を失って草書になった。章草と草書の区別について、北宋の黄伯思は『東観余論』に、「凡て草書で波磔を分つものを章草と称し、そうでないものをただ草書という。」と記している。草書は行書の略のように一般に思われているようであるが、これは誤りである。草書の中で、「我」・「無」などの字は、今の楷書や行書とは連絡がなく、篆書や隷書と連絡していることがその証明になるであろう。
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草書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 09:54 UTC 版)
十七帖(じゅうしちじょう)羲之の手紙29通を集めて一巻としたもので、蜀郡の太守の周撫に与えた手紙が多い。初行に「十七日」の句があるのでこのように呼ばれる。本帖について、『右軍書記』に20通分の墨蹟本をあげて、「これ烜赫(けんかく)たる著名の帖なり」としている。これが現在の「十七帖」の原形だと考えられている。また、『東観余論』に、「書中の龍なり」と評するなど、古来、草書の神品とされている。 遊目帖(ゆうもくじょう)『游目帖』とも書く。本帖は、羲之が益州刺史・周撫に宛てた尺牘11行で、蜀郡への憧れを寄せている。古来『十七帖』の中の1帖『蜀都帖』(しょくとじょう)の双鉤塡墨本といわれ、良く知られた1帖であるが、伝承の正しい、つまり羲之の書を忠実に伝えている『十七帖』の刻本と比べると結体や筆法に相違があり、概ね本帖の方が結体が悪い。ただし伝来どおり双鉤塡墨の痕跡があり、また唐の太宗のときの貞観の小印が押されているという点から、唐人が臨書したものをもとにしての双鉤塡墨本であろうと考えられている。が、『十七帖』との先後を決定することは難しい。本帖は唐・宋代に宮廷コレクションに蔵され、1747年に清の内府に入り『三希堂法帖』に刻入された。その後、恭親王に帰し、1900年、義和団の乱の際に流出して、明治末期に日本に伝来し、大正2年(1913年)4月、京都府立図書館で一般公開された。昭和20年(1945年)、所蔵者だった広島市の安達万蔵が原爆で被災し、以降、行方不明となり焼失したものとされている。その影印本が現存する。 瞻近帖(せんきんじょう)羲之が陶瞻に宛てたもので、陶瞻の来訪を心待ちにしていることを告げている。 行穣帖(こうじょうじょう)2行15字の尺牘の断簡であるが、古くから知られた羲之の名品である。文意は不明であり、2行目の先頭の文字についても、「示」(董其昌の説)・「意」(張彦遠の説)・「哀」(王澍の説)など見解の相違がある。本帖には王羲之独特の草書の書風が見出せず、それ以前からあった尺牘の書風によって王羲之が若い頃に書いたものと推察される。『三希堂法帖』や『余清斎帖』などに刻入され、臨模本がプリンストン大学美術館に収蔵されている。 二謝帖(にしゃじょう、『二謝書帖』とも)内容は、親しい謝氏の誰かが亡くなった悲しみを綴った尺牘で、草書で10行、77文字ある。その没した者は、謝尚(しゃしょう、308年 - 357年、中文)か、あるいは謝奕(しゃえき、? - 358年、中文)ともいわれている。長春の溥儀コレクションが略奪されたあと、1948年に焼却されたと伝えられる。本帖は『三希堂法帖』や『鄰蘇園帖』に刻されているが、『鄰蘇園帖』は『三希堂法帖』からの重刻である。 秋月帖(しゅうげつじょう、『七月帖』とも)内容は、ごく簡単な相手の安否を問う尺牘で、草書で7行、50文字ある。謝尚への見舞状ともいわれている。『都下帖』(とかじょう、『都下九日帖』・『桓公当陽帖』とも)と合わせて一軸とした14行の模本が存在し、現在、台湾の故宮博物院に収蔵されている。『都下帖』も草書の尺牘で、書風も酷似している。一般にその両帖一軸を日本では『秋月帖』と称し、中国では『七月都下帖』と称すことが多い。『三希堂法帖』・『淳化閣帖』に刻入されている。 得丹楊書帖(とくたんようしょじょう)羲之が遠く離れている友人に対し、会ってゆっくりと語り合いたいと綴っている。 袁生帖(えんしょうじょう)羲之が都へ行った袁(袁宏あるいは袁嶠之)の近況を尋ねているが、宛先は不明である。 時事帖(じじじょう) 知念帖(ちねんじょう) 自慰帖(じいじょう) 皇象帖(こうぞうじょう) 晩差帖(ばんさじょう) 大熱帖(だいねつじょう) 転佳帖(てんかじょう) 初月帖(しょげつじょう) 妹至帖(まいしじょう) 長風帖(ちょうふうじょう) 労弊帖(ろうへいじょう) 荀侯帖(しゅんこうじょう) 寒切帖(かんせつじょう) 従洛帖(じゅうらくじょう) 遠宦帖(えんかんじょう) 参朝帖(さんちょうじょう) 弘遠帖(こうえんじょう) 分住帖(ぶんじゅうじょう) 周常侍帖(しゅうじょうじじょう) 謝生在山帖(しゃせいざいさんじょう) 『十七帖』(余清斎帖本、冒頭部分)
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「草書」の例文・使い方・用例・文例
- 日本語の草書体はとても読みづらい.
- 草書体.
- アンシャル書体から発展した小さい草書体文字の、または、アンシャル書体から発展した小さい草書体文字に関する
- 草書体
- 古代のエジプト文字の草書体で書かれている、または属すさま
- 7世紀と9世紀の間に、アンシアル字体から発達して、中世の原稿で使われる小文字の草書体文字
- 古代の神官文字のスクリプトの簡易化された草書体形式
- 草書体で書く
- 漢字の書体の,行書と草書
- 行書や草書で書くこと
- 行書や草書で書いた字
- 漢字の書体である楷書,行書,草書の総称
- 草書の「心」の字をかたどった池
- 楷書と草書
- 書道で,草書
- 万葉仮名を草書体に書きくずしたもの
- 草書という,篆隷を簡略化した書体
- 草書の字体
- 草書という書体
- 草書体の署名
- >> 「草書」を含む用語の索引
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