義和団の乱とは?

義和団の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/01 08:06 UTC 版)

義和団の乱(ぎわだんのらん、中国語: 義和團運動; ピン音: Yìhétuán Yùndòng)は、1900年に起こった、中国朝末期の動乱である。




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  1. ^ a b c d 梅本可奈子 (2008年6月20日). “【今日は何の日】1900年:義和団、独公使を殺害”. Searchina. 2011年6月21日閲覧。
  2. ^ 毓賢、?-1901。漢軍正黄旗の人。字は佐臣。買官(金銭によって官位を買う事)によって山東曹州の知府となったのを皮切りに、1888年按察使布政使を歴任した。1899年には張汝梅の後を受け山東巡撫となり、義和団対策に臨んだ。この時義和団に対し融和的な施策を取ったことから義和団の勢いが増し、アメリカ公使コンガーの強い要請によって更迭され、袁世凱が後任の巡撫となった。ただ毓賢はそのまま官を辞したのではなく、山西巡撫へと横滑りしただけである。これは罷免を求める西欧列強に対する清朝の精一杯の抵抗であったといわれる。辛丑条約後、列強によって罪を問われ、この時点でようやく罷免となった。その後新疆へと流される途中、蘭州で処刑された。『清史稿』巻465・列伝252より。
  3. ^ この場合の「洋」にはアメリカと日本も含まれている。
  4. ^ 董福祥、1839(あるいは1840)-1908。甘粛省固原(現在の寧夏)の人。字は星五。1862年陝西省と甘粛省に起きた 回民起義において反乱軍に参加した。しかし左宗棠の軍に投降して以後は、その配下として働き提督まで上り詰めた。1897年には北京防衛を任され、栄禄の配下となる。翌年に起きた戊戌政変の際には西太后を支持した。1900年の義和団の乱時には外国公使館を包囲し攻撃した。この時の攻撃は栄禄に比べると激しかったという。やがて北京が八カ国連合軍によって陥落すると、西太后が逃げるのを助けた。後に連合軍から戦犯の一人と名指しされて罷免され、失意の内に病死した。『清史稿』巻455・列伝242。
  5. ^ 列強への宣戦布告諸説。「宣戦布告」の真の理由については諸説あり、どの要素を最も重視するかという点で4つ説がある。一、「照会」説-偽造された列強からの「照会」に重きを置くもの。二、義和団の圧力があったとする説。三、天津において直隷総督裕禄が偽って列強に勝利したと上奏したことを信じ宣戦したという説。四、列強の度重なる帝国主義的圧力に堪忍袋の緒が切れたためとする説がある。
  6. ^ 端郡王載漪、1856-1922。愛新覚羅氏、つまり清朝の宗室出身。西太后の姪を妻として迎えたため、その覚えめでたかった。そのため光緒帝を廃位しようとする計画、すなわち己亥建儲のときには、彼の子溥儁(フシュン)が大阿哥(=皇太子)に立てられることになった。しかし列強の反対などでこの計画は頓挫し、彼は列強を深く恨むに至り、それが義和団支持に結びついた。北京議定書締結後は、乱の責任を問われ流罪となり、子の溥儁も大阿哥の称号を奪われた。1917年頃北京に戻ったが、貧窮に苦しみつつ5年後に亡くなった。『清史稿』巻221・列伝8。
  7. ^ 島崎晋『名言でたどる世界の歴史』(PHPエディター・グループ、2010年6月。ISBN 978-4-569-77939-3)pp.294-295
  8. ^ 山縣有朋『北清事変善後策』 「今回ノ北清事変ヲ機トシ、朝鮮全部ヲ挙ケテ我カ勢力区域ニ移サント欲シ、或ハ露ノ満洲経営ヲ妨ケルヲ約シ、以テ我レノ朝鮮経営ヲ諾セシメント欲スルアリ」(読点は加筆者)
  9. ^ 聶士成、?-1900。安徽省合肥の人で李鴻章とは同郷。字は功亭。1862年淮軍に参加し、李鴻章のもとで太平天国や捻軍鎮圧に従事した。この後はフランス軍や日本軍と戦い戦果を挙げ、1897年に直隷提督に昇進した。翌年配下の軍隊は武衛前軍と改称したが、この軍は袁世凱の新建陸軍同様、近代化を図った軍隊であった。1900年、この軍を率いて天津防衛に当たるも、砲弾に当たり戦死。常に兵たちの先頭に立ち、「腹破れ腸出ずるもなお軍を指揮して前進させた」という。『清史稿』巻467・列伝254より。
  10. ^ 裕禄、1844-1900。満洲正白旗の人、喜塔臘氏。字は寿山、号は寿泉。栄禄から高い信頼を得る。30歳を少し過ぎたばかりで巡撫に抜擢され、以後湖広総督軍機大臣礼部尚書を歴任、エリート街道を歩む。1898年栄禄の後任として直隷総督兼 北洋大臣となった。『清史稿』巻465・列伝252より。
  11. ^ 慶親王奕劻(愛新覚羅奕キョウ)1838年 - 1917年。咸豊帝の従兄弟に当たる。ただ幼少期は貧しかったという。才識は凡庸だといわれたが、人の心を捉えるのに長け、西太后に非常に気に入られたのをきっかけに出世した。1884年恭親王奕訢に代わり一時総理衙門を取り仕切ったこともある。義和団の乱の際は穏健派に属し列強への宣戦布告などには反対していたため、その後講和代表として選ばれている。乱後の政治改革において設けられた外交部の大臣にも就任し、栄禄亡き後は非常な権勢を誇るに至った。それは辛亥革命まで、つまり清朝が滅亡するまで続いた。革命後天津に移り住み余生を送ったが、1917年病死した。『清史稿』巻221・列伝8。
  12. ^ 日本外務省編『外務省の百年』原書房、1969、ISBN B000J9KFCA、日本外務省記録「各国ノ団匪賠償金処分関係雑件」。
  13. ^ Dominic Jellinik 2011
  14. ^ Yiyong Wang 2013
  15. ^ 桑原
  16. ^ 渡辺 安代「老舎『神拳』について:『義和団』「吐了一口気」との関わりの中から」(『お茶の水女子大学中国文学会報』7、1988)。







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