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げんじょう げんじやう 【玄奘】
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玄奘三蔵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/12/22 13:27 UTC 版)
(玄奘 から転送)
| 玄奘三蔵 | |
|---|---|
| 602年 - 664年 | |
| 尊称 | 三蔵法師 |
| 生地 | 緱氏県 |
| 宗派 | 法相宗 |
| 寺院 | 大慈恩寺 |
| 師 | 戒賢 |
| 弟子 | 基、道昭 |
| 著作 | 仏典漢訳多数 |
玄奘三蔵(げんじょうさんぞう、602年- 664年3月7日)は、唐代の中国の訳経僧。玄奘は戒名であり、俗名は陳褘(チンイ)。尊称は三蔵法師。
目次 |
生涯
仏教への帰依
陳褘は、隋朝の仁寿2年(602年)、洛陽にほど近い緱氏[1][2][3]、現在の河南省偃師市緱氏鎮で陳慧(または陳恵)の4男[1][3]として生まれた。母の宋氏は洛州長史を務めた宋欽の娘である。[1]字は玄奘[1][3]で、戒名はこれを諱とした。生年は、上記の602年説の他に、598年説、600年説がある。[4]
陳氏は、後漢の陳寔[1][2][3]を祖にもつ陳留(現在の河南省開封市)出身の士大夫の家柄で、地方官を歴任した。特に曽祖父の陳欽(または陳山)は北魏の時代に上党郡の太守になっている。[1][3]その後、祖父である陳康は北斉に仕え、緱氏へと移住した。[1][2][3]
8歳の時、『孝経』を父から習っていた陳褘は、曾子避席のくだりを聞いて、「曾子ですら席を避けたのなら、私も座っていられません」と言い、襟を正して起立した状態で教えを受けた。この逸話により、陳褘の神童ぶりが評判となった。[3]
10歳[4]で父を亡くした陳褘は、次兄[3]の長捷(俗名は陳素[2])が出家して洛陽の浄土寺に住むようになった[1][2][3]のをきっかけに、自身も浄土寺に学び、11歳にして『維摩経』と『法華経』を誦すようになった。[2]ほどなくして度僧の募集があり、陳褘もそれに応じようとしたが、若すぎたため試験を受けられなかったので、門のところで待ち構えた。これを知った隋の大理卿である鄭善果は、陳褘に様々な質問をして、最後になぜ出家したいのかを尋ねたところ、陳褘は「遠くは如来を紹し、近くは遺法を光らせたいから」と答えた。[3]これに感じ入った鄭善果は、「この風骨は得がたいものだ」と評して特例を認め、[1][3]陳褘は度牒を得て出家した。こうして兄とともに浄土寺に住み込むことになり、13歳で『涅槃経』と『摂大乗論』を学んだ。[1][2][3]
武徳元年(618年)、隋が衰え、洛陽の情勢が不安定になると、17歳の玄奘は兄とともに長安の荘厳寺[2]へと移った。しかし、長安は街全体が戦支度に追われ、玄奘の望むような講釈はなかった。[1][2][3]かつて煬帝が洛陽に集めた名僧たちは主に益州に散らばっていることを知った玄奘は、益州巡りを志し、武徳2年(619年)に兄と共に成都へと至って『阿毘曇論』を学んだ。また益州各地に先人たちを尋ねて『涅槃経』、『摂大乗論』、『阿毘曇論』の研究をすすめ、歴史や老荘思想[1][3]への見識を深めた。
武徳5年(622年)、21歳の玄奘は成都で具足戒を受けた。[1][3]ここまで行動を共にしていた長捷は、成都の空慧寺に留まることになったので、玄奘はひとり旅立ち、商人らに混じって三峡を下り、荊州の天皇寺で学んだ。[1][2][3]その後も先人を求めて相州へ行き、さらに趙州で『成実論』を、長安の大覚寺で『倶舎論』を学んだ。[1][3]
西域の旅
玄奘は、仏典の研究には原典に拠るべきであると考え、また、仏跡の巡礼を志し、貞観3年(629年)、唐王朝に出国の許可を求めた。しかし、許されなかったため、国禁を犯して密かに出国、河西回廊を経て高昌に至った。
高昌王である麴文泰は、熱心な仏教徒であったことも手伝い、玄奘を金銭面で援助した。玄奘は西域の商人らに混じって天山北路を辿って中央アジアの旅を続け、ガンジス川を越えてインドに至った。
ナーランダ大学では戒賢に師事して唯識を学び、また各地の仏跡を巡拝した。ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナの保護を受け、ハルシャ王へも進講している。
こうして学問を修めた後、天山南路を経て帰国の途につき、出国から15年余を経た貞観19年1月(645年)に、657部の経典を長安に持ち帰った。幸い、玄奘が帰国した時には唐の情勢は大きく変わっており、時の皇帝・太宗も玄奘の業績を高く評価したので、15年前の密出国の件について玄奘が罪を問われることはなかった。
帰還後
帰国した彼は、持ち帰った膨大な梵経の翻訳に専念した。太宗の勅命により、玄奘は、貞観19年(645年)2月6日に弘福寺の翻経院で翻訳事業を開始した。
この事業の拠点は後に大慈恩寺に移った。さらに、持ち帰った経典や仏像などを保存する建物の建設を高宗に進言し、652年、大慈恩寺に大雁塔が建立された。
その後、玉華宮に居を移したが、翻訳はそのまま続けた。麟徳元年2月5日(664年3月7日)、玄奘は玉華宮で寂した。
訳経
玄奘の翻訳は『大般若経』600巻を含む76部1,347巻に及んだ。
その際、中国語に相応しい訳語を新たに選び直しており、それ以前の鳩摩羅什らの漢訳仏典を旧訳(くやく)、それ以後の漢訳仏典を新訳(しんやく)と呼ぶ。
『般若心経』も玄奘が翻訳したものとされているが、この中で使われている観自在菩薩は クマーラジーバによる旧訳では観音経の趣意を意訳した観世音菩薩となっている。訳文の簡潔さ、流麗さでは旧訳が勝るといわれているが、サンスクリットの原語Avalokiteśvara「アヴァローキテーシュヴァラ」は「自由に見ることができる」という意味なので、観自在菩薩の方が訳語として正確であり、また玄奘自身も旧訳を非難している。
一説では唐の太宗皇帝の姓名が「李世民」であったため、「世」の字を使うのが避諱によりはばかられたからともされる。
一方、玄奘にはこの『般若心経』をはじめとして維摩経など、あたかもクマーラジーバ訳に上書きして済ましたかのごとき翻訳もあり、彼の学究としての興味の程度により仕事ぶりが変わるようである。
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