廃仏毀釈
廃仏毀釈とは、廃仏毀釈の意味
廃仏毀釈とは、仏教の弾圧・排斥を目的として寺院・仏像・仏具・仏典などを破壊する政策や運動あるいは思想のことである。とりわけ明治元年に「神仏分離令」の発布と共に行われた一連の政策を指すことが多い。廃仏毀釈の語の由来
廃仏毀釈は文字通り「仏教を廃し、釈迦の教えを壊す(毀す)」ことを意味する。すなわち仏教の法や釈迦の教えを廃することである。中国でも3世紀以降しばしば仏教弾圧がみられた。この中国の仏教弾圧も「廃仏毀釈」と呼ばれる。日本では、仏教保護政策をとっていた徳川幕府に対して、王政復古を唱える明治政府が国民統合の理念として神道を国教化する政策を積極的にとったため、仏教の弾圧・排斥運動が起こった。それによって、全国各地で仏教寺院や仏像、仏具、仏典などの破壊や遺棄を行う激しい廃仏毀釈が引き起こされ、多くの貴重な文化財が失われ、あるいは海外に流出した。寺院の廃合や僧侶の還俗も促進された。
廃仏毀釈の語の使い方、例文
- この寺は、明治の廃仏毀釈の時、一堂も残さず破壊された。
- 廃仏毀釈の運動は、仏教徒に覚醒を促し、近代仏教成立の契機となった。
- 彼の意見は、廃仏毀釈を超えて、さらに宗教全体に対する批判にまで及んだ。
- 廃仏毀釈は信仰の自由とは相反する思想である。
廃仏毀釈の類語と使い分け
廃仏毀釈の類語としては、日本史上の廃仏毀釈運動を指す意味では「神仏分離」が挙げられる。神仏分離は、明治新政府が神道を国家神道として国教化するために、日本で古来より行われてきた「神仏習合」あるいは「神仏混淆」の考え方を断ち切ろうとする政策である。この政策が廃仏毀釈に直結している。「破壊を伴う徹底的な宗教弾圧」を指す意味では「焚書坑儒」や「アイコノクラズム」が廃仏毀釈の類義語とも捉えられる。「焚書坑儒」は秦の始皇帝による儒家思想の弾圧を指し、「アイコノクラズム(iconoclasm)」は中世ヨーロッパで起こったキリスト教の偶像崇拝を排斥する運動を指す。
はいぶつ‐きしゃく【廃仏毀釈】
廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)
廃仏毀釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/08 13:37 UTC 版)
廃仏毀釈(廢佛毀釋、排仏棄釈、はいぶつきしゃく)とは、仏教を廃すること。「廃仏」は仏法を廃し、「毀釈」は釈迦(仏教の開祖)の教えを棄却するという意味である[1]。
注釈
出典
- ^ 精選版 日本国語大辞典 廃仏毀釈 コトバンク
- ^ a b c d e f g ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 廃仏毀釈 コトバンク
- ^ a b c d e 日本大百科全書(ニッポニカ)、百科事典マイペディア 仏教 コトバンク
- ^ a b 日本大百科全書(ニッポニカ) 法難 コトバンク
- ^ 朝日日本歴史人物事典 保科正之 コトバンク
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ) 「神仏分離」 コトバンク
- ^ 朝日日本歴史人物事典 徳川光圀 コトバンク
- ^ a b 圭室文雄「水戸藩の撞鐘徴収政策」
- ^ 朝日日本歴史人物事典 徳川斉昭 日本大百科全書(ニッポニカ) 「徳川斉昭」 コトバンク
- ^ a b 「生涯学習情報提供システム、<えひめの記憶>」- 『愛媛県史』 学問・宗教 第二編宗教 第二章 仏教 第四節 近代仏教界の変革 愛媛県生涯学習センター
- ^ 圭室文雄「水戸藩の撞鐘徴収政策」(『明治大学教養論集』86号、1974年)
- ^ 太政官布告・神祇官事務局達・太政官達など
- ^ 安丸良夫・宮地正人編『日本近代思想大系5 宗教と国家』431ページ
- ^ 僧尼令について。
- ^ a b c 山川 日本史小辞典 改訂新版 「廃仏毀釈」
- ^ a b 尾鍋輝彦『大世界史 第19巻 カイゼルの髭』P.36
- ^ 安丸良夫『神々の明治維新』P.149〜
- ^ 鵜飼秀徳『仏教抹殺』pp.156-157、文藝春秋、2019年、第4刷
- ^ 大屋徳城「奈良における神仏分離」『明治維新神仏分離資料』
- ^ 鵜飼秀徳『仏教抹殺』pp.54-56、文藝春秋、2019年、第4刷
- ^ “過去の仏教弾圧知って 壊れた仏像など、展示や資料館で”. 朝日新聞デジタル (2019年9月24日). 2022年5月1日閲覧。
- ^ 鵜飼秀徳『仏教抹殺』pp.131-132、文藝春秋、2019年、第4刷
- ^ “宝寿院の歴史”. 宝寿院 (2008年1月10日). 2012年12月1日閲覧。
- ^ 鵜飼秀徳『仏教抹殺』pp.57-58、文藝春秋、2019年、第4刷
- ^ 鵜飼秀徳『仏教抹殺』pp.150-161、文藝春秋、2019年、第4刷
- ^ 鵜飼秀徳『仏教抹殺』pp.93-97、文藝春秋、2019年、第4刷
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ) 三武一宗の法難 コトバンク
廃仏毀釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 00:53 UTC 版)
明治政府が神仏分離令を布告し、その分離政策を神道関係者と地方官吏とが「仏法を廃し、釈迦の教えを棄却する」までに拡大解釈した結果、天台寺は国内最大級の被害を受けた。明治3年12月(西暦で1871年)、当時の青森県官吏が実地調査に入ると、山内20ヘクタールに末社27社が散在していたにもかかわらず、官吏はこれを無視して、天台寺境内周囲約1ヘクタールのみとし、他の末社をことごとく廃止した。山林は官有林とされた。仏像も数多く焼き払われた。本尊などは当時の檀家の人々によって山林に隠されたため破壊は逃れたものの、土中に埋められたり、野ざらしの状態で保管されていたため、保存状態は悪いものが多い。本堂、薬師堂、毘沙門堂、十一面観音堂以外の社殿はほぼ焼き払われ、梵鐘は破壊され、宝物であった大般若経写本までも焼かれたという。
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廃仏毀釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/22 17:37 UTC 版)
明治3年(1870年)5月10日、岩鼻県から神仏分離取締に任命された新居守村が榛名神社へ赴任。廃仏毀釈、仏教的なものをすべて破壊するよう指導。この際、榛名神社から仏教色は一掃される。 現存している三重塔も新居守村は壊すと書いてあったが、残された。 典拠管理 WorldCat Identities VIAF: 22012602 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
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廃仏毀釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 09:34 UTC 版)
維新後の苗木藩では、平田国学の影響を受けた藩政改革が図られ、藩の大参事となった長男の青山直通とともに藩内の廃仏毀釈を徹底的に実行(東白川村の蟠龍寺などの例がある)、政府の神道国教化政策にしたがって神仏分離を推進した。明治3年9月27日、苗木藩庁は、支配地一同が神葬改宗したので、管内の15か寺の廃寺と、その寺僧たちに還俗を申し付けたことを、弁官(中央役人)に届けた。 恵那郡苗木村 雲林寺・仏好寺 福岡村 片岡寺 蛭川村 宝林寺 坂下村 長昌寺 高山村 岩松寺 中野方村 心観寺 河合村 竜現寺 加茂郡飯地村 洞泉寺 黒川村 正法寺 赤河村 昌寿寺 神土村 常楽寺 姫栗村 長増寺 犬地村 積善寺 切井村 龍気寺 この届け書によると、廃寺は15か寺となっているが、実際には苗木の雲林寺の塔頭の正岳院や、加茂郡大沢村の蟠龍寺も廃寺となっている。
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廃仏毀釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 09:14 UTC 版)
廃仏毀釈に際しては、松本藩では80数か寺が焼打ちにあったり、取り壊されたりしたが、安養寺住職了照は松本へ日参し、正行寺・極楽寺・宝栄寺などと協力して猛運動を展開して寺の存続をはかった。これが功を奏して、松本のすべての真宗寺院が廃寺の難を逃れた。 鐘楼 冬枯れの庭園 冬枯れの庭園にそびえるしだれ桜
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廃仏毀釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 08:44 UTC 版)
明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって、日吉山王権現・牛頭天王(祇園信仰)とともに八王子権現も廃された。 八王子社の多くは、日吉八王子神社・八王子神社・牛尾神社、などと名乗っている。
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廃仏毀釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 15:58 UTC 版)
維新直後、平田派国学の影響を受けた藩政改革が図られ、青山景通、青山直通の親子らが先頭に立って、領内で徹底した廃仏毀釈が実行された(東白川村の蟠龍寺などの例がある)。明治3年(1870年)9月27日、苗木藩庁は、支配地一同が神葬改宗したので、管内の15か寺の廃寺と、その寺僧たちに還俗を申し付けたことを、弁官(中央役人)に届けた。 恵那郡苗木村 雲林寺・仏好寺 福岡村 片岡寺 蛭川村 宝林寺 坂下村 長昌寺 高山村 岩松寺 中野方村 心観寺 加茂郡河合村 竜現寺 飯地村 洞泉寺 黒川村 正法寺 赤河村 昌寿寺 神土村 常楽寺 姫栗村 長増寺 犬地村 積善寺 切井村 龍気寺 この届け書によると、廃寺は15か寺となっているが、実際には苗木の雲林寺の塔頭の正岳院と寿昌院、加茂郡大沢村の蟠龍寺も廃寺となっている。
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