数奇な運命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/14 05:53 UTC 版)
ランチアは高額の契約金でフェラーリから2年連続チャンピオンのアルベルト・アスカリを迎えたが、D50の開発は遅れ、デビューは1954年シーズンの最終戦スペインGPにずれこんだ。この年はメルセデス・ベンツ・W196が圧倒的な強さを見せていたが、アスカリはポールポジションとファステストラップを記録してマシンの潜在能力を示した。メルセデス・ベンツのエンジニア、ルドルフ・ウーレンハウトは後年、1950年代半ばに彼らが脅威を感じたマシンはヤーノが設計したD50だけであったことを認めている。 1955年の第2戦モナコGPで、アスカリはトップに浮上した直後シケインから港に転落。海中から無事救助されたが、その4日後、モンツァ・サーキットでテスト中に事故死した。エースドライバーの死と資金難に見舞われたランチアはF1撤退を決断。D50はわずか4戦で姿を消すかと思われたが、イタリア自動車協会の仲介でフィアット、ランチア、フェラーリの3社交渉が行われ、ランチアが6台のD50とレース資材一切をフェラーリに譲り渡し、フィアットが向こう5年間フェラーリに資金援助するという合意がなされた。これに伴いヤーノら技術陣もフェラーリに移籍した。フェラーリは最終戦の地元イタリアGPでD50を投入したが、イングルベールタイヤとの相性が悪く、フリー走行や予選でトレッドが吹き飛ぶアクシデントが続出したため、決勝での使用は見送られた。
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「数奇な運命」の例文・使い方・用例・文例
- 私は数奇な運命にもてあそばれてきた。
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