かい‐き【開基】
かいき 【開基】
開基
開基
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 04:20 UTC 版)
元禄4年(1691年)4月9日、肥後国八代町の壮厳寺住職准誉により開基される。
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開基
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 17:46 UTC 版)
戸田松平家は、譜代として初めて松平の名字を許される。徳川家康の異父妹松姫(久松俊勝と於大の方の娘)を藩祖戸田康長が娶ったためであった。康長と松姫には長男・永兼が居たが早世した。康長には妾腹の次男に忠光、三男に康直がおり、忠光が後継者であった。彼は2代将軍徳川秀忠と3代将軍徳川家光の両方の偏諱を授かっているほど、期待された人物であった。忠光には妾腹の松平光重と正妻の子の女子がいた。ところが、忠光は父・康長に先立って亡くなる。そのために忠光の弟の康直が跡を継いだ。康直には子がおらず、忠光の子である光重が跡を継いだ。この光重の妹であり、忠光の正室の長女であったのが二の丸殿である。 その後、戸田松平家は公卿の羽林家の一つである今城家と、何代にもわたり婚姻関係を結ぶ。戸田家は三大臣家である正親町三条家の支流である。家紋の1つに戸田連翹(とだれんぎょう)を用いる。これは正親町三条家の家紋である連翹襷(れんぎょうだすき)の変形で、高家寺の寺紋はこの戸田連翹である。寺伝では、この大臣家正親町三条家の支流であるために「高家」を名乗ったとされる。高家とは元々は貴族を意味していた。 高家寺の境内は江戸初期の中山道の地図上に、本堂・観音堂・摩利支天鎮守堂の挿し絵で確認される。寺領は425坪程度で現在の岐阜駅のすぐ南にあった。江戸期に盛衰あり、加納藩主安藤信成の時、その藩政に問題がありお家騒動が発生し、安藤家は陸奥磐城平藩に減転封され、永井家に代わった1756年以降の高家寺の記録は散失した。ただし、灯籠が何本もあり、荒寺であったわけではないことが確認される。明治時代、岐阜駅を創る際に移動させられ、その移動先も太平洋戦争の戦火により全焼した。仮堂のままであったものを、岐阜易前の開発に伴い岐阜市鷺山に仮移設し、その後、平成5年(1993年)に現在地に移転した。
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開基
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文禄3年(1594年)、安国寺恵瓊が現在の広島市中区中町に臨済宗の寺院「霊仙寺」を「安国寺」として大改装したのに始まる。本堂建立に際しては朝鮮出兵で恵瓊が持ち帰った材木が使用された。豊臣秀吉死後、恵瓊は秀吉の遺髪を持ち帰り安芸安国寺『不動院(広島市東区)』と安国寺に遺髪塚を建立する。開基時においては現在の愛宕池跡付近が海岸線であり、それより南には広島湾が広がっていた。
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開基
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延久3年(1071年)菊池氏初代菊池則隆が春日大明神を勧請し、その神護寺として建立したのがこの天台宗春日寺であると伝わっている。寛永9年(1632年)に肥後の国主となった細川忠利は岫雲院の名を与え、以後は岫雲院が正式の名称となった。
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開基
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進美寺山の山腹に位置する寺院。寺の歴史を記した『日前山進美寺縁起』によれば、文武天皇御宇、慶雲2年(705年)に行基菩薩が諸国の勝地を行脚。但馬国に来錫した際、聖観世音菩薩を安置して霊場を開いたことに始まるとされる。これが現在に至るまで本尊として安置されている聖観世音菩薩である。聖武天皇の御代に勅を賜って十三間四面の大伽藍が建立され、四十二の別院を有した。
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開基
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 06:19 UTC 版)
類義語として「開基」があり、後に同義語として用いられるようになったが、厳密には両者は別々のものである。「開基」は、寺院の創始にあたって必要な経済的支持を与えた者、ないし世俗在家の実力者(大檀那)を指す語である。例えば円覚寺の場合、寺院建立の事業を担った北条時宗が開基であり、時宗に招請されて住持となった無学祖元師が開山である。 ただし、宗旨や宗派によって、これらの語の用法には相違がある。宗派を開くに際して総本山をひらくことから生じる転用として、宗祖を特に「開山」と呼ぶ宗派もある。浄土真宗では、宗祖とされる親鸞を「開山」(「御開山」)とも呼ぶことから、末寺の創始者を「開基」と呼んで区別する。曹洞宗では、道元を「開山禅師」と呼んでいる。また、禅宗における用法として、寺院を創始した僧侶自身が、師への尊崇の念から自らではなく師を開山とする「勧請開山」(かんじょうかいさん)があり、この場合、実際の創始者たる僧侶自身を「創建開山」(そうけんかいさん)と称する。
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開基
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/31 13:23 UTC 版)
藤原通基が現在の上京区に設置し、その後北朝天皇の位牌が安置されていたものの、後に廃絶したとされている持明院(安楽光院)の後身とする説もあるが、不明。 確実に辿れるのは、1304年(嘉元2年)に後深草院が崩御の後にこの地に葬られ、法華堂が造営されたことに由来する。
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開基
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 12:37 UTC 版)
重源 - 中国から将来した五劫思惟阿弥陀仏像(本尊)を安置した一寺が始まりとされる。
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