大改装
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 05:40 UTC 版)
1930年代に本型も他クラスに伴って近代化改装を行った。 改装内容は攻防走全ての面に及んだ。軍令部は1934年(昭和9年)9月25日の想定(昭和15年末)で、65000トン・34ノットの新型戦艦4隻(大和型戦艦)を建造すると共に、「日向、伊勢」の主砲を40㎝砲に換装することも検討している。だが伊勢型の主砲換装は実現せず、従来どおり36.5㎝砲の能力強化に落ち着いた。主砲の仰角は従来の30度から43度へと引き上げられて、最大射程は35,450mとなった。副砲も砲架を改造して従来の20度から30度へと引き上げて最大射程は19,100mとなり主砲・副砲の射程距離の延伸を計った。それと平行して砲戦指揮装置の改善・大型化、艦橋測距儀を基線長10.5mへと大型化した。これに伴い主砲塔天蓋の装甲厚を76mmから152mmへと増厚し、副砲防盾の装甲厚を増した。また、防御力不足の不満もあった舷側装甲の範囲を充実させた事により装甲重量は9,525トンから12,644トンへと増加した。さらに水平防御と対魚雷水中防御能力の向上に重点を置いた装甲配置の改良がなされた。他に40mm連装機関砲2基を九六式25mm連装機銃10基へ変更した。 主機関ではロ号艦本式ボイラーを石炭・重油混焼缶24基から重油専焼缶8基へと更新され、推進機関は姉妹艦ともに直結タービン2基4軸推進から艦本式オールギヤードタービン4基4軸推進へと統一され、これにより出力は80,000hpへと増大し、速力も25ノットを発揮した。石炭貯蔵庫が廃止され燃料は重油に一本化されたために重油タンクは伊勢:4,249トン、日向:4,250トンとなって航続性能は速力16ノット巡航で伊勢は11,100海里、日向は7,870海里へと延伸された。この時に缶数の削減に伴って艦橋に近い1番煙突は撤去され、替わりに2番煙突を大型のものに換装、追い風時の煤煙被害は解決された。また、これに伴って艦載艇置き場は1番煙突跡に設けられてブラスト・スクリーンは覆いが大型化された。更に艦尾部の船体を6m延長して速力向上と直進性を向上させた。 伊勢型に対するこれらの改装は「伊勢」は1935年8月1日に着手し、1937年3月23日に完了し、「日向」も1934年10月24日に着手し、1936年9月7日に完了した。 なお、この大改装時に撤去された「日向」の2番煙突が、優秀な船舶・舟艇兵器の数々を開発装備していた帝国陸軍船舶部隊が運用する揚陸艦(上陸用舟艇母船)こと、特種船「神州丸(神洲丸)」に移設されている。「神州丸」は本格的な世界初のドック型揚陸艦であると同時に、(戦闘機や偵察爆撃機をカタパルトで射出する)航空機運用能力を持つ強襲揚陸艦の先駆的存在でもあり、その中甲板に設けられた約12機収納可能な航空機格納庫の存在を秘匿するため、および特種船を複数保有していると偽装するために、海軍の協力によって余剰となった「日向」の旧2番煙突をダミーとして転用した。 装甲配置 (VC:ヴィッカーズ式鋼板、NS:ニッケル鋼板、HT:高張力鋼板、DS:デュコール鋼、NVNC:新型ヴィッカーズ無浸炭均質鋼板) 主甲帯 299-100 VC 中甲板甲帯 199 VC 上甲板甲帯 149 VC 横防御隔壁 前部中甲板 199 VC 下甲板 199 VC 後部中甲板 199 VC 下甲板 224 VC 水平防御 下甲板 32 NS+25×3 DS 最上甲板 35 HT 魚雷防御隔壁 76 HT 弾薬庫 甲板平坦部 32 NS+135-120 NVNC 甲板傾斜部 32 HT 垂直部 76-38 HT+230-95 NVNC 底部 25 NS 司令塔 側面 320 VC 上面 158 NVNC 床面 76 VC 交通筒 178-51 VC 主砲塔 前盾 305 VC 側面 229 VC 後面 229 VC 上面 152 VC バーベット 299-50 VC+? NVNC ケースメイト 砲盾 38 HT 隔壁 19 HT 舵取機室 なし(大戦中に周辺にコンクリート充填) 煙路 38-51 HT
※この「大改装」の解説は、「伊勢型戦艦」の解説の一部です。
「大改装」を含む「伊勢型戦艦」の記事については、「伊勢型戦艦」の概要を参照ください。
大改装
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/21 09:34 UTC 版)
比叡は1936年(昭和11年)12月末のロンドン海軍軍縮条約切れを待って、11月26日より呉工廠で戦艦として復活する大改装が行われた。イギリスは比叡の再武装を在日本イギリス代理大使を通じて抗議し、比叡廃棄処分と日本政府の説明を求めた。これに対する日本政府の返答は「比叡を練習艦として保存するという制限は、条約の効力存続を前提とするものであって、失効後は制限も消滅する」だった。この改装は他の金剛型戦艦が一次、二次と2回で行われた改装を一度に行った形となった。改装点は以下の通り。 第4砲塔、舷側装甲の復活。 水平装甲の追加(推定。他艦は第一次改装で実施済み) 主砲装甲を強化、前盾250mm、天蓋150mmとなる。 その他装甲を追加する。 主砲仰角を43度まで増大し、最大射程は35,450mとなった。 副砲仰角も30度まで増大し、最大射程は19,500mとなった。 副砲は2門減り、14門とする。 主缶を重油専焼缶8基とする。 重油搭載量を増大、航続距離を延長した。 主機を艦本式タービンと交換、出力は136,000馬力となった。 抵抗を減少させるため艦尾を7.6m延長し速力を29.7 ktとした。 排水量が増大したため、バルジを装着した。 12.7cm高角砲の指揮装置を九四式高射装置とする。(他艦は九一式高射装置) 25mm連装機銃10基を装備。 艦橋の近接防御用に13mm4連装機銃2基を装備(この機銃に対して「大和型と同じ装備」との記述が見受けられるが実際に大和型の艦橋に装備されたのは13mm連装機銃であり比叡とは異なる) その他応急注排水装置、防毒装置などを装備した。 この工事は大和型戦艦のテスト艦としての役割も担っている。艦橋構造物は他の艦と違い、大和型戦艦と似た塔型構造を採用している。艦橋トップの方位盤も大和型で採用予定の九八式射撃盤と九四式方位照準装置を、大和型と同様に縦に重ねて搭載している。これにより姉妹艦とは艦影がかなり異なる形となった。また主砲旋回用水圧ポンプに大和型への導入テストとしてブラウンボベリー(現ABBグループ)のターボポンプ1台を導入し、高評価を得て大和型に3台導入された。内部も、火薬庫冷却装置、応急注排水装置、急速注排水装置を大和型採用予定のものを組み込んでいる。 艦幅は他の同型艦より1m広い。他の艦は改装により吃水が深くなりすぎ、防御甲板(下甲板)が水線下となってしまった。このため吃水を浅くし防御甲板を水線上に上げるためにとられた処置である。バルジの幅を広くして浮力を増し、下甲板は水面より高くなった。排水量は3万6601 tに達している。宇垣纏連合艦隊参謀長は、著作の中で「改造の最後艦にして最も理想化された艦」と述べている。もっとも書類上は『練習戦艦』のままだった。 1939年(昭和14年)12月5日の公試では排水量36,332 t、出力137,970馬力において29.9 ktを記録している。1940年(昭和15年)7月3日には、皇弟である高松宮宣仁親王(海軍少佐)が砲術長に補職される。親王にとって2度目の比叡勤務となる。1941年(昭和16年)4月まで勤務していた。有馬馨比叡艦長以下幹部は宣仁親王に参謀長室を提供しようとするなど気を使うことが多かったが、親王は一将校として比叡で勤務した。後日、親王は比叡沈没後の水交会で「比叡の時が一番気安く暮らした」と回想している。
※この「大改装」の解説は、「比叡 (戦艦)」の解説の一部です。
「大改装」を含む「比叡 (戦艦)」の記事については、「比叡 (戦艦)」の概要を参照ください。
大改装
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 18:03 UTC 版)
加古は1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)に、古鷹は1938年(昭和13年)から1939年(昭和14年)にかけて大改装が行われ、青葉型とほぼ同一の艦容となった。なお、船殻工事は大阪鉄工所桜島工場で行われた。
※この「大改装」の解説は、「古鷹型重巡洋艦」の解説の一部です。
「大改装」を含む「古鷹型重巡洋艦」の記事については、「古鷹型重巡洋艦」の概要を参照ください。
- 大改装のページへのリンク