対雁
対雁
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〒067-0033 北海道江別市対雁
〒061-0215 北海道石狩郡当別町対雁
〒061-0215 北海道石狩郡当別町対雁
対雁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/29 18:03 UTC 版)
対雁(ついしかり)は北海道江別市にある地名。江別発祥の地と呼ばれる[1]。
注釈
- ^ 榊原正文は自著において、「かつて石狩川は現在の対雁から世田豊平川、旧豊平川、モエレ沼を経て、篠路から茨戸川に流れ込んでいた。後に石狩川の流路が変わり、それまでの流路は「トゥエシカリ」(元の石狩川)、その入り口である現在の対雁の地が「トゥエシカリ・チャロ」(元の石狩川の入り口)と呼ばれるようになった」との説を提唱している
- ^ 現在の札幌東高校付近にあった湧水池「トイシカラメㇺ」(対雁の泉池)から発し、月寒川、厚別川、野津幌川を合わせ、現在の対雁で石狩川に流れ込んでいた川。現在の旧豊平川、世田豊平川に当たる。小沼川も参照
- ^ 寛政年間までの豊平川の旧河道は、現在伏籠川となっている[8]。
- ^ 禹王は、古代中国の伝説的な統治者である。黄河の治水に尽力したと伝えられ、漢字文化圏において土木、治水の神として祀られている
- ^ 渡辺金助の曾孫である渡辺真志によると、対雁から雁来への集団転居が行われたのは道路が開通した1872年(明治5年)8月のことで、戸数も24戸中22戸だったとしている[16]。
- ^ 駅逓前に植えられたアカマツ、通称「駅逓の松」は、駅逓廃止後も地域のシンボルとして親しまれていた(昭和49年に枯死、伐採)
- ^ 「世田」は、東京都世田谷区出身者による開拓地「世田谷地区」にちなむ
出典
- ^ 対雁百年史 1971, p. 1.
- ^ 対雁百年史 1971, p. 8.
- ^ 山田 1984, p. 40.
- ^ 榊原 2002, p. 220-224.
- ^ 関 2018, p. 434.
- ^ 石狩ファイル0067-02 イシカリ十三場所
- ^ a b c 対雁百年史 1971, p. 10.
- ^ a b 関 2018, p. 386.
- ^ a b c 対雁百年史 1971, p. 9.
- ^ 新江別市史 2005, p. 89-90.
- ^ 新江別市史 2005, p. 95-97.
- ^ 札幌市 1977, p. 15.
- ^ 国土交通省北海道開発局 開拓初期:豊平川流域-暮らし・社会【札幌開発建設部】治水100年
- ^ a b c d e f 対雁百年史 1971, p. 7.
- ^ 関 2018, p. 53.
- ^ a b c 対雁百年史 1971, p. 21.
- ^ a b c 江別工業団地だより ついしかり 平成31年4月15日
- ^ a b c 対雁百年史 1971, p. 11.
- ^ 伊藤 2008, p. 345.
- ^ a b 対雁百年史 1971, p. 39.
- ^ a b 対雁百年史 1971, p. 15.
- ^ a b c d 対雁百年史 1971, p. 12.
- ^ a b 対雁百年史 1971, p. 31.
- ^ 藤倉 2007, p. 56.
- ^ 藤倉 2007, p. 33.
- ^ 広報えべつ2015年9月号 戦災から逃れて もうひとつの世田谷
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