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しぶさわ-えいいち しぶさは― 【渋沢栄一】
近代日本人の肖像 |
渋沢栄一 しぶさわ えいいち
埼玉生まれ。明冶・大正期の指導的大実業家。豪農の長男。一橋家に仕え、慶応3年(1867)パリ万国博覧会に出席する徳川昭武に随行し、欧州の産業、制度を見聞。明治2年(1869)新政府に出仕し、5年(1872)大蔵大丞となるが翌年退官して実業界に入る。第一国立銀行の総監役、頭取となった他、王子製紙、大阪紡績、東京瓦斯など多くの近代的企業の創立と発展に尽力した。『論語』を徳育の規範とし、「道徳経済合一説」を唱える。大正5年(1916)実業界から引退するが、その後も社会公共事業や国際親善に力を注いだ。明治33年(1900)男爵、大正9年(1920)子爵。
| キーワード | 実業家 |
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江戸人物事典 |
渋沢 栄一 (しぶさわ えいいち)
| 1840〜1931 (天保11年〜昭和6年) |
|
【実業家】 設立育成した企業の数は、約500社にも。日本の資本主義を育てた経済界の巨人。 |
| 明治・大正の実業家。武蔵国の豪農の家に生まれた。一橋慶喜に仕え、実弟の水戸藩主徳川昭武に随行して仏パリなど欧州を訪問。維新後は明治政府に出仕した。パリで学んだ知識をいかして、新貨条例・国立銀行条例など諸制度改革を行う。日本に株式会社(合本組織)を導入、設立した第一国立銀行を足掛かりに、王子製紙・大阪紡績・東京瓦斯など約500社の設立や商業会議所・銀行集会所の創設に関与、日本資本主義の発達に大いなる貢献をした。「経済道徳合一」を主義とし、一部企業が利益を独占するのを生涯嫌った。 |
年(和暦) |
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| ●1853年 (嘉永6年) | ■黒船来航 | 13才 |
| ●1855年 (安政2年) | ■安政江戸地震 | 15才 |
| ●1858年 (安政5年) | ■安政の大獄 | 18才 |
| ●1860年 (万延元年) | ■桜田門外の変 | 20才 |
| ●1862年 (文久2年) | ■生麦事件 | 22才 |
| ●1863年 (文久3年) | ■薩英戦争 | 23才 |
| ●1867年 (慶応3年) | ■大政奉還 | 27才 |
| ●1868年 (明治元年) | ■鳥羽・伏見の戦い | 28才 |
| ●1869年 (明治2年) | ■版籍奉還 | 29才 |
| ●1871年 (明治4年) | ■廃藩置県 | 31才 |
| ●1871年 (明治4年) | ■解放令 | 31才 |
| ●1873年 (明治6年) | ■徴兵制布告 | 33才 |
| ●1876年 (明治9年) | ■廃刀令 | 36才 |
| ●1877年 (明治10年) | ■西南戦争 | 37才 |
| ●1877年 (明治10年) | ■東京大学設立 | 37才 |
| ●1882年 (明治15年) | ■上野動物園開園 | 42才 |
| ●1883年 (明治16年) | ■鹿鳴館完成 | 43才 |
| ●1889年 (明治22年) | ■大日本帝国憲法発布 | 49才 |
| ●1894年 (明治27年) | ■日清戦争 | 54才 |
| ●1903年 (明治36年) | ■江戸開府300年 | 63才 |
| ●1904年 (明治37年) | ■日露戦争 | 64才 |
| ●1907年 (明治40年) | ■足尾銅山で暴動 | 67才 |
| ●1910年 (明治43年) | ■韓国併合 | 70才 |
| ●1918年 (大正7年) | ■米騒動 | 78才 |
| ●1923年 (大正12年) | ■関東大震災 | 83才 |
| ●1928年 (昭和3年) | ■初の普通選挙実施 | 88才 |
人物名 |
年齢差 |
|
| ・近藤 勇 | 1834年〜1868年 (天保5年〜明治元年) | +6 |
| ・Roesler K. | 1834年〜1894年 (天保5年〜明治27年) | +6 |
| ・橋本 雅邦 | 1835年〜1908年 (天保6年〜明治41年) | +5 |
| ・土方 歳三 | 1835年〜1869年 (天保6年〜明治2年) | +5 |
| ・榎本 武揚 | 1836年〜1908年 (天保7年〜明治41年) | +4 |
| ・徳川(一橋) 慶喜 | 1837年〜1913年 (天保8年〜大正2年) | +3 |
| ・Morse E. S. | 1838年〜1925年 (天保9年〜大正14年) | +2 |
| ・三遊亭 円朝(初代) | 1839年〜1900年 (天保10年〜明治33年) | +1 |
| ・Morel E. | 1841年〜1871年 (天保12年〜明治4年) | -1 |
| ・沼間 守一 | 1843年〜1890年 (天保14年〜明治23年) | -3 |
| ・Griffis William Eliot | 1843年〜1928年 (天保14年〜昭和3年) | -3 |
| ・尾上 菊五郎(五世) | 1844年〜1903年 (弘化元年〜明治36年) | -4 |
| ・沖田 総司 | 1844年〜1868年 (弘化元年〜明治元年) | -4 |
| ・徳川 家茂 | 1846年〜1866年 (弘化3年〜慶応2年) | -6 |
ウィキペディア |
渋沢栄一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/29 12:10 UTC 版)
| 本来の表記は「澁澤榮一」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。 |
| 渋沢 栄一 | |
|---|---|
| 生誕 | 1840年3月16日 (天保11年2月13日) 現埼玉県深谷市 |
| 死没 | 1931年11月11日(91歳) |
| 職業 | 幕臣、官僚、実業家、教育者 |
渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、旧字体:澁澤 榮一、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 1931年(昭和6年)11月11日)は、幕末から大正初期に活躍した日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父といわれる。
目次 |
人物
生い立ち
天保11年(1840年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)に父・市郎右衛門、母・エイの長男として生まれた。幼名は市三郎。のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎。渋沢成一郎は従兄。
渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける豪農だった。原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。市三郎も父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行った。14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験がヨーロッパ時代の経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的な合理主義思想につながったといわれる。
徳川慶喜の家臣・幕臣として
一方で5歳の頃より父から読書を授けられ、7歳の時には従兄の尾高惇忠の許に通い、四書五経や『日本外史』を学ぶ。剣術は、大川平兵衛より神道無念流を学んだ。19歳の時(1858年)には惇忠の妹・尾高千代と結婚、名を栄一郎と改めるが、文久元年(1861年)に江戸に出て海保漁村の門下生となる。また北辰一刀流の千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から文久3年(1863年)に尊皇攘夷の思想に目覚め、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画をたてる。しかし、惇忠の弟・長七郎の懸命な説得により中止する。
親族に累が及ばぬよう父より勘当を受けた体裁を取って京都に上るが、八月十八日の政変直後で勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕えることになる。仕官中は一橋家領内を巡回し、農兵の募集に携わる。
主君の慶喜が将軍となったのに伴い幕臣となり、パリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の弟・徳川昭武の随員として、フランスを訪れる。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。各地で先進的な産業・軍備を実見すると共に、将校と商人が対等に交わる社会を見て感銘を受ける。ちなみにこの時に彼に語学を教えたのは、シーボルトの長男で通訳として同行していたアレクサンダーである。帰国後もその交友は続き、アレキサンダーは弟のハインリッヒと共に後に明治政府に勤めた渋沢に対して日本赤十字社設立など度々協力をするようになる。
パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学するものの、大政奉還に伴い、慶応3年(1867年)に新政府から帰国を命じられ、12月に帰国した。
大蔵省出仕~実業家時代
帰国後は静岡に謹慎していた慶喜と面会し、静岡藩より出仕することを命ぜられるも慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受し、フランスで学んだ株式会社制度を実践するため、及び新政府からの拝借金返済の為、明治2年(1869年)1月、静岡にて商法会所を設立するが、大隈重信に説得され、10月に大蔵省に入省する。大蔵官僚として民部省改正掛(当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた)を率いて改革案の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わる。しかし、予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、1873年(明治6年)に井上馨と共に退官した。
退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(第一銀行、第一勧業銀行を経て、現:みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。また、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導した。
第一国立銀行のほか、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙(現王子製紙・日本製紙)、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれている。
若い頃は頑迷なナショナリストだったが、「外人土地所有禁止法」(1912年)に見られる日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本のニュースを送る通信社を立案、成功はしなかったが、これが現在の時事通信社と共同通信社の起源となった。
渋沢が三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・古河市兵衛・大倉喜八郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある。「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の敬三にもこれを固く戒めた。また、他の財閥当主が軒並み男爵どまりなのに対し、渋沢一人は子爵を授かっているのも、そうした公共への奉仕が早くから評価されていたためである。
なお、渋沢は財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設し、これを中心とする企業群が後に「渋沢財閥」と呼ばれたこともあって、他の実業家と何ら変わらないのではないかとの評価もある。しかし、これはあくまでも死後の財産争いを防止するために便宜的に持株会社化したもので、渋沢同族株式会社の保有する株は会社の株の2割以下、ほとんどの場合は数パーセントにも満たないものだった。
社会活動
渋沢は実業界の中でも最も社会活動に熱心で、東京市からの要請で養育院の院長を務めたほか、東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり財団法人聖路加国際病院初代理事長、財団法人滝乃川学園初代理事長、YMCA環太平洋連絡会議の日本側議長などもした。
関東大震災後の復興のためには、大震災善後会副会長となり寄付金集めなどに奔走した。
当時は商人に高等教育はいらないという考え方が支配的だったが、商業教育にも力を入れ商法講習所(現一橋大学)・大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力したほか、二松學舍(現二松學舍大学)の第3代舎長に就任した。学校法人国士舘(創立者・柴田徳次郎)の設立・経営に携わり、井上馨に乞われ同志社大学(創立者・新島襄)への寄付金の取り纏めに関わった。また、商人同様に教育は不要だといわれていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと女子教育奨励会を設立、日本女子大学校・東京女学館の設立に携わった。
また日本国際児童親善会を設立し、日本人形とアメリカの人形(青い目の人形)を交換するなどして、交流を深めることに尽力している。1931年には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務め義援金を募るなどし、民間外交の先駆者としての側面もある。なお渋沢は1926年と1927年のノーベル平和賞の候補にもなっている。
道徳経済合一説
1916年(大正5年)に『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた。 『論語と算盤』にはその理念が端的に次のように述べられている。
富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。[1]
そして、道徳と離れた欺瞞、不道徳、権謀術数的な商才は、真の商才ではないと言っている。また、同書の次の言葉には、栄一の経営哲学のエッセンスが込められている。
事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。[2]
幕末に栄一と同じ観点から備中松山藩の藩政改革にあたった陽明学者・山田方谷の門人で、「義利合一論」(義=倫理・利=利益)を論じた三島中洲と知り合うと、両者は意気投合して栄一は三島と深く交わるようになる。栄一は、三島の死後に彼が創立した二松学舎の経営に深く関わることになる。
系譜
- 江戸末期、血洗島村には渋沢姓を名乗る家が17軒あった。このため、家の位置によって「東ノ家」「西ノ家」「中ノ家」「前ノ家」「新屋敷」などと呼んで区別した。栄一の父・市郎右衛門は「東ノ家」の当主二代目宗助の三男としてうまれたが、「中ノ家」に養子にはいったのである。明暦年間の「中ノ家」は小農にすぎなかったが、栄一がうまれるころになると村の中で二番目の財産家となっていた。栄一が故郷を出てからは妹の貞子が「中ノ家」を守り、須永家より市郎をむかえ4代目とした。貞子・市郎夫妻の長男元治は初代名古屋大学総長となった。
- 栄一は渋沢家の分家「中ノ家」の出だが、本家「東ノ家」からはフランス文学者の澁澤龍彦が出ている。
- 栄一は尾高惇忠の妹・千代と結婚したが、千代は1882年(明治15年)に死去し、翌年に伊藤兼子と再婚した。兼子の父は武蔵国川越出身の大富豪・伊藤八兵衛で、画家の淡島椿岳は八兵衛の実弟、作家の淡島寒月は甥にあたる。
- 渋沢氏(中ノ家)
∴ 渋沢市郎右衛門 ┃ ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━┓ ┃ ┃ ┃ 渋沢栄一 渋沢市郎(婿養子) 貞子 ┃ ┃ ┣━━━━┳━━━━━━━━━┳━━━━┳━━━┳━━┳━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 渋沢篤二 渋沢武之助 渋沢正雄 渋沢秀雄 歌子 琴子 愛子 渋沢元治 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━┳━━━━━┓ ┃ ┣━━━━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 渋沢敬三 渋沢信雄 渋沢智雄 純子 華子 渋沢和男 ┃ ┣━━━━┳━━━━━┓ ┃ ┃ ┃ 渋沢雅英 紀子 黎子 ┃ ┣━━━━┓ ┃ ┃ 男 女
家族・親族
- 妻
- 千代(歌子、琴子、ふみ、篤二の母)
- 兼子(照子、武之助、正雄、愛子、秀雄の母)
- 子[3]
- 長男:篤二 (廃嫡)
- 次男:武之助
- 三男:正雄(日本製鐵副社長)
- 四男:秀雄(東京宝塚劇場会長、東宝取締役会長)
- 長女:歌子(学者の穂積陳重男爵に嫁ぐ)
- 次女:琴子(大蔵大臣となった阪谷芳郎子爵に嫁ぐ)
- 三女:ふみ(東洋生命社長となった尾高次郎に嫁ぐ)
- 四女:照子(富士製紙社長となった大川平三郎に嫁ぐ)
- 五女:愛子(第一銀行社長となった明石照男に嫁ぐ)
- 庶子:長谷川重三郎(第一銀行頭取)
- 孫
- 渋沢敬三(子爵、民俗学者、日銀総裁、大蔵大臣、父・篤二の廃嫡後に祖父・栄一より後継者に指名される)
- 渋沢信雄(貿易商、妻は音楽教育家齋藤秀雄の妹)
- 渋沢智雄(渋沢倉庫常務)
- 渋沢和男(アコーディオン演奏者、音楽家、秀雄の長男)
- 渋沢華子(小説家、秀雄の娘で和男の姉妹)
- 鮫島純子(鮫島員重の妻)
- 穂積重遠(法学者、最高裁判事)
- 尾高朝雄(法哲学者)
- 尾高邦雄(社会学者、妻は哲学者和辻哲郎の娘)
- 尾高尚忠(指揮者)
- 明石正三(足利銀行監査役)
- 明石武和(味の素常務)
- 曾孫
- 渋沢寿一(NPO法人樹木環境ネットワーク協会専務理事)
- 渋沢雅英(渋沢栄一記念財団理事長)
- 尾高惇忠(作曲家)
- 尾高忠明(指揮者)
- 河野典子(河野雅治駐ロシア特命全権大使の妻)
- 大川慶次郎(競馬評論家)
その他
- 日本史上を代表する経済人として、また初代紙幣頭(後の印刷局長)として日本銀行券(紙幣)の肖像の候補者として過去に何回か挙げられたものの実現には至っていない。特に日本銀行券C千円券(1963年11月1日発行開始)の肖像候補として最終選考に残ったが、結局伊藤博文が採用された。当時は偽造防止に、肖像にヒゲがある人物が用いられていたためである。
- 日本では渋沢の肖像を入れた紙幣は発行されなかったが、1902年から1904年にかけて大韓帝国で発行された初期の第一銀行券の1円、5円、10円券には当時の経営者だった渋沢の肖像が描かれていた。
- 渋沢は晩年を川越市で過ごした。深谷市では、栄一の命月の11月が「渋沢栄一記念月間」に指定され、毎年イベントが催されている。埼玉県子ども会育成連絡協議会が発行した『さいたま郷土かるた』の「に」の項目は「日本の産業育てた渋沢翁」となっており、畠山重忠、塙保己一と並ぶ埼玉を代表する偉人として、3人札(役札:3枚そろえると10点)に選出されている。また『彩の国21世紀郷土かるた』の「え」の項目は「栄一も食べたネギ入り煮ぼうとう」となっている。これは深谷ねぎが栄一の故郷の深谷の特産品であることと、煮ぼうとうが埼玉県北部の郷土料理であることにちなんでいる。
- 現在埼玉県では渋沢の功績に因み、健全な企業活動と社会貢献を行っている全国の企業経営者に「渋沢栄一賞」を授与している。
参考文献
史料
- 『渋沢栄一伝記資料集』〈第1~58巻〉(渋沢栄一伝記史料刊行会、1955年~1965年)
- 『渋沢栄一伝記資料集』〈別巻第1~10巻〉(渋沢青淵記念財団竜門社、1966年~1971年)
- 『渋沢栄一滞仏日記』〈日本史籍協会叢書〉(日本史籍協会、1928年)
主な著書
- 『渋沢栄一全集』(全6巻) 平凡社、1930年
- 『青淵百話』 同文舘、1931年
- 『雨夜譚 渋沢栄一自伝』(長幸男校注、岩波文庫、1984年)
- 『論語と算盤』 国書刊行会、1985年、角川ソフィア文庫、2008年
- 『論語講義』(全7巻:講談社学術文庫、1977年)
- 『渋沢百訓 論語・人生・経営』 角川ソフィア文庫、2010年
伝記・評伝研究・歴史小説
- 幸田露伴 『渋沢栄一伝』 岩波書店、1939年、復刊1986年ほか
- 渋沢秀雄 『渋沢栄一』 渋沢青淵記念財団竜門社、1951年[4]
- 渋沢雅英 『太平洋にかける橋 - 渋沢栄一の生涯』 読売新聞社、1970年
- 土屋喬雄 『渋沢栄一』 吉川弘文館〈人物叢書〉、新装版1989年
- 木村昌人 『渋沢栄一』 中公新書、1991年
- 渋沢華子 『渋沢栄一、パリ万博へ』 国書刊行会、1995年
- 佐野眞一 『渋沢家三代』 文春新書、1998年
- 鹿島茂 『渋沢栄一』 I.算盤篇、II.論語篇[5]、文藝春秋、2011年1月
- 坂本慎一 『渋沢栄一の経世済民思想』 日本評論社、2002年
- 見城悌治 『渋沢栄一 「道徳」と経済のあいだ』 日本経済評論社、2008年 ISBN 9784818820241
- 東京商工会議所編 『渋沢栄一 日本を創った実業人』 講談社+α文庫、2008年、ISBN 9784062812351
- 山本七平 『渋沢栄一 近代の創造』 新版・祥伝社、2009年
- 大佛次郎 『激流 渋沢栄一の若き日』 新版・未知谷、2009年
- 城山三郎 『雄気堂々』 新潮文庫 全2巻、改版2003年
- 童門冬二 『渋沢栄一 人間の礎』 学陽書房<人物文庫>、1998年
- 津本陽 『小説渋沢栄一』 新版・幻冬舎文庫 全2巻、2007年
栄典
- 1892年(明治25年)7月19日: 勲四等瑞宝章(民間人初の叙勲)
- 1911年(明治44年)8月24日: 勲一等瑞宝章
- 1928年(昭和3年)11月10日: 勲一等旭日桐花大綬章
補注
- ^ 渋沢栄一『論語と算盤』(角川ソフィア文庫)(角川学芸出版 ISBN 978-4044090012 2008年10月25日)、22頁。
- ^ 渋沢栄一『論語と算盤』(角川ソフィア文庫)(角川学芸出版 ISBN 978-4044090012 2008年10月25日)、49頁(一部の漢字を現代語風にひらがなに改めて引用)。
- ^ 庶子を合わせると20人くらいになるという。渋沢は女性関係が派手だったようで、大蔵省時代には自宅に妾と同居していたこともある。
- ^ 渋沢秀雄は、以後も『父 渋沢栄一』(上下巻、実業之日本社、1959年)、『渋沢栄一』(時事通信社、1965年)、『明治を耕した話 父・渋沢栄一』(青蛙房、1977年)など多くの著作を出した。
- ^ 「サン=シモン主義者 渋沢栄一」の題名で、『諸君!』1999年8月号から長期連載したが長らく未刊だった。
関連項目
- 渋沢史料館 - 渋沢栄一の生涯と事績に関する博物館。現存する旧本邸の建物(晩香廬、青淵文庫)を公開。
- 古牧温泉 - 渋沢公園内に旧三田綱町邸が移築保存されている。
- 南湖神社 - 松平定信公が祭神。建てられる際に渋沢も支援している。
- 渋沢財閥
外部リンク
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澁澤榮一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/03 04:57 UTC 版)
| 澁澤 榮一 | |
|---|---|
| 生誕 | 1840年3月16日 (天保11年2月13日) 現埼玉県深谷市 |
| 死没 | 1931年11月11日(91歳) |
| 職業 | 幕臣、官僚、実業家、教育者 |
澁澤榮一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 1931年(昭和6年)11月11日)は、幕末から大正初期に活躍した日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父といわれる。
目次 |
人物
生い立ち
天保11年(1840年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)に父・市郎右衛門、母・エイの長男として生まれた。幼名は市三郎。のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎。澁澤成一郎は従兄。
澁澤家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける豪農だった。原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。市三郎も父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行った。14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験がヨーロッパ時代の経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的な合理主義思想につながったといわれる。
徳川慶喜の家臣・幕臣として
一方で5歳の頃より父から読書を授けられ、7歳の時には従兄の尾高惇忠の許に通い、四書五経や『日本外史』を学ぶ。剣術は、大川平兵衛より神道無念流を学んだ。19歳の時(1858年)には惇忠の妹・尾高千代と結婚、名を栄一郎と改めるが、文久元年(1861年)に江戸に出て海保漁村の門下生となる。また北辰一刀流の千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から文久3年(1863年)に尊皇攘夷の思想に目覚め、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画をたてる。しかし、惇忠の弟・長七郎の懸命な説得により中止する。
親族に累が及ばぬよう父より勘当を受けた体裁を取って京都に上るが、八月十八日の政変直後で勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕えることになる。仕官中は一橋家領内を巡回し、農兵の募集に携わる。
主君の慶喜が将軍となったのに伴い幕臣となり、パリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の弟・徳川昭武の随員として、フランスを訪れる。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。各地で先進的な産業・軍備を実見すると共に、将校と商人が対等に交わる社会を見て感銘を受ける。ちなみにこの時に彼に語学を教えたのは、シーボルトの長男で通訳として同行していたアレクサンダーである。帰国後もその交友は続き、アレキサンダーは弟のハインリッヒと共に後に明治政府に勤めた澁澤に対して日本赤十字社設立など度々協力をするようになる。
パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学するものの、大政奉還に伴い、慶応3年(1867年)に新政府から帰国を命じられ、12月に帰国した。
大蔵省出仕~実業家時代
帰国後は静岡に謹慎していた慶喜と面会し、静岡藩より出仕することを命ぜられるも慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受し、フランスで学んだ株式会社制度を実践するため、及び新政府からの拝借金返済の為、明治2年(1869年)1月、静岡にて商法会所を設立するが、大隈重信に説得され、10月に大蔵省に入省する。大蔵官僚として民部省改正掛(当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた)を率いて改革案の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わる。しかし、予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、1873年(明治6年)に井上馨と共に退官した。
退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(第一銀行、第一勧業銀行を経て、現:みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。また、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導した。
第一国立銀行のほか、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙(現王子製紙・日本製紙)、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれている。
若い頃は頑迷なナショナリストだったが、「外人土地所有禁止法」(1912年)に見られる日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本のニュースを送る通信社を立案、成功はしなかったが、これが現在の時事通信社と共同通信社の起源となった。
澁澤が三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・古河市兵衛・大倉喜八郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある。「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の敬三にもこれを固く戒めた。また、他の財閥当主が軒並み男爵どまりなのに対し、澁澤一人は子爵を授かっているのも、そうした公共への奉仕が早くから評価されていたためである。
なお、澁澤は財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設し、これを中心とする企業群が後に「渋沢財閥」と呼ばれたこともあって、他の実業家と何ら変わらないのではないかとの評価もある。しかし、これはあくまでも死後の財産争いを防止するために便宜的に持株会社化したもので、澁澤同族株式会社の保有する株は会社の株の2割以下、ほとんどの場合は数パーセントにも満たないものだった。
社会活動
澁澤は実業界の中でも最も社会活動に熱心で、東京市からの要請で養育院の院長を務めたほか、東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり財団法人聖路加国際病院初代理事長、財団法人滝乃川学園初代理事長、YMCA環太平洋連絡会議の日本側議長などもした。
関東大震災後の復興のためには、大震災善後会副会長となり寄付金集めなどに奔走した。
当時は商人に高等教育はいらないという考え方が支配的だったが、商業教育にも力を入れ商法講習所(現一橋大学)・大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力したほか、二松學舍(現二松學舍大学)の第3代舎長に就任した。学校法人国士舘(創立者・柴田徳次郎)の設立・経営に携わり、井上馨に乞われ同志社大学(創立者・新島襄)への寄付金の取り纏めに関わった。また、商人同様に教育は不要だといわれていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと女子教育奨励会を設立、日本女子大学校・東京女学館の設立に携わった。
また日本国際児童親善会を設立し、日本人形とアメリカの人形(青い目の人形)を交換するなどして、交流を深めることに尽力している。1931年には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務め義援金を募るなどし、民間外交の先駆者としての側面もある。なお澁澤は1926年と1927年のノーベル平和賞の候補にもなっている。
道徳経済合一説
1916年(大正5年)に『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた。 『論語と算盤』にはその理念が端的に次のように述べられている。
富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。[1]
そして、道徳と離れた欺瞞、不道徳、権謀術数的な商才は、真の商才ではないと言っている。また、同書の次の言葉には、栄一の経営哲学のエッセンスが込められている。
事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。[2]
幕末に栄一と同じ観点から備中松山藩の藩政改革にあたった陽明学者・山田方谷の門人で、「義利合一論」(義=倫理・利=利益)を論じた三島中洲と知り合うと、両者は意気投合して栄一は三島と深く交わるようになる。栄一は、三島の死後に彼が創立した二松学舎の経営に深く関わることになる。
系譜
- 江戸末期、血洗島村には澁澤姓を名乗る家が17軒あった。このため、家の位置によって「東ノ家」「西ノ家」「中ノ家」「前ノ家」「新屋敷」などと呼んで区別した。栄一の父・市郎右衛門は「東ノ家」の当主二代目宗助の三男としてうまれたが、「中ノ家」に養子にはいったのである。明暦年間の「中ノ家」は小農にすぎなかったが、栄一がうまれるころになると村の中で二番目の財産家となっていた。栄一が故郷を出てからは妹の貞子が「中ノ家」を守り、須永家より市郎をむかえ4代目とした。貞子・市郎夫妻の長男元治は初代名古屋大学総長となった。
- 栄一は澁澤家の分家「中ノ家」の出だが、本家「東ノ家」からはフランス文学者の澁澤龍彦が出ている。
- 栄一は尾高惇忠の妹・千代と結婚したが、千代は1882年(明治15年)に死去し、翌年に伊藤兼子と再婚した。兼子の父は武蔵国川越出身の大富豪・伊藤八兵衛で、画家の淡島椿岳は八兵衛の実弟、作家の淡島寒月は甥にあたる。
- 澁澤氏(中ノ家)
∴ 澁澤市郎右衛門 ┃ ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━┓ ┃ ┃ ┃ 澁澤栄一 澁澤市郎(婿養子) 貞子 ┃ ┃ ┣━━━━┳━━━━━━━━━┳━━━━┳━━━┳━━┳━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 澁澤篤二 澁澤武之助 澁澤正雄 澁澤秀雄 歌子 琴子 愛子 澁澤元治 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━┳━━━━━┓ ┃ ┣━━━━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 澁澤敬三 澁澤信雄 澁澤智雄 純子 華子 澁澤和男 ┃ ┣━━━━┳━━━━━┓ ┃ ┃ ┃ 澁澤雅英 紀子 黎子 ┃ ┣━━━━┓ ┃ ┃ 男 女
家族・親族
- 妻
- 千代(歌子、琴子、ふみ、篤二の母)
- 兼子(照子、武之助、正雄、愛子、秀雄の母)
- 子[3]
- 長男:篤二 (廃嫡)
- 次男:武之助
- 三男:正雄(日本製鐵副社長)
- 四男:秀雄(東京宝塚劇場会長、東宝取締役会長)
- 長女:歌子(学者の穂積陳重男爵に嫁ぐ)
- 次女:琴子(大蔵大臣となった阪谷芳郎子爵に嫁ぐ)
- 三女:ふみ(東洋生命社長となった尾高次郎に嫁ぐ)
- 四女:照子(富士製紙社長となった大川平三郎に嫁ぐ)
- 五女:愛子(第一銀行社長となった明石照男に嫁ぐ)
- 庶子:長谷川重三郎(第一銀行頭取)
- 孫
- 渋沢敬三(子爵、民俗学者、日銀総裁、大蔵大臣、父・篤二の廃嫡後に祖父・栄一より後継者に指名される)
- 渋沢信雄(貿易商、妻は音楽教育家齋藤秀雄の妹)
- 渋沢智雄(渋沢倉庫常務)
- 渋沢和男(アコーディオン演奏者、音楽家、秀雄の長男)
- 渋沢華子(小説家、秀雄の娘で和男の姉妹)
- 鮫島純子(鮫島員重の妻)
- 穂積重遠(法学者、最高裁判事)
- 尾高朝雄(法哲学者)
- 尾高邦雄(社会学者、妻は哲学者和辻哲郎の娘)
- 尾高尚忠(指揮者)
- 明石正三(足利銀行監査役)
- 明石武和(味の素常務)
- 曾孫
- 渋沢寿一(NPO法人樹木環境ネットワーク協会専務理事)
- 渋沢雅英(渋沢栄一記念財団理事長)
- 尾高惇忠(作曲家)
- 尾高忠明(指揮者)
- 河野典子(河野雅治駐ロシア特命全権大使の妻)
- 大川慶次郎(競馬評論家)
その他
- 日本史上を代表する経済人として、また初代紙幣頭(後の印刷局長)として日本銀行券(紙幣)の肖像の候補者として過去に何回か挙げられたものの実現には至っていない。特に日本銀行券C千円券(1963年11月1日発行開始)の肖像候補として最終選考に残ったが、結局伊藤博文が採用された。当時は偽造防止に、肖像にヒゲがある人物が用いられていたためである。
- 日本では渋沢の肖像を入れた紙幣は発行されなかったが、1902年から1904年にかけて大韓帝国で発行された初期の第一銀行券の1円、5円、10円券には当時の経営者だった渋沢の肖像が描かれていた。
- 渋沢は晩年を川越市で過ごした。深谷市では、栄一の命月の11月が「渋沢栄一記念月間」に指定され、毎年イベントが催されている。埼玉県子ども会育成連絡協議会が発行した『さいたま郷土かるた』の「に」の項目は「日本の産業育てた渋沢翁」となっており、畠山重忠、塙保己一と並ぶ埼玉を代表する偉人として、3人札(役札:3枚そろえると10点)に選出されている。また『彩の国21世紀郷土かるた』の「え」の項目は「栄一も食べたネギ入り煮ぼうとう」となっている。これは深谷ねぎが栄一の故郷の深谷の特産品であることと、煮ぼうとうが埼玉県北部の郷土料理であることにちなんでいる。
- 現在埼玉県では渋沢の功績に因み、健全な企業活動と社会貢献を行っている全国の企業経営者に「渋沢栄一賞」を授与している。
参考文献
史料
- 『渋沢栄一伝記資料集』〈第1~58巻〉(渋沢栄一伝記史料刊行会、1955年~1965年)
- 『渋沢栄一伝記資料集』〈別巻第1~10巻〉(渋沢青淵記念財団竜門社、1966年~1971年)
- 『渋沢栄一滞仏日記』〈日本史籍協会叢書〉(日本史籍協会、1928年)
主な著書
- 『渋沢栄一全集』(全6巻) 平凡社、1930年
- 『青淵百話』 同文舘、1931年
- 『雨夜譚 渋沢栄一自伝』(長幸男校注、岩波文庫、1984年)
- 『論語と算盤』 国書刊行会、1985年、角川ソフィア文庫、2008年
- 『論語講義』(全7巻:講談社学術文庫、1977年)
- 『渋沢百訓 論語・人生・経営』 角川ソフィア文庫、2010年
伝記・評伝研究・歴史小説
- 幸田露伴 『渋沢栄一伝』 岩波書店、1939年、復刊1986年ほか
- 渋沢秀雄 『渋沢栄一』 渋沢青淵記念財団竜門社、1951年[4]
- 渋沢雅英 『太平洋にかける橋 - 渋沢栄一の生涯』 読売新聞社、1970年
- 土屋喬雄 『渋沢栄一』 吉川弘文館〈人物叢書〉、新装版1989年
- 木村昌人 『渋沢栄一』 中公新書、1991年
- 渋沢華子 『渋沢栄一、パリ万博へ』 国書刊行会、1995年
- 佐野眞一 『渋沢家三代』 文春新書、1998年
- 鹿島茂 『渋沢栄一』 I.算盤篇、II.論語篇[5]、文藝春秋、2011年1月
- 坂本慎一 『渋沢栄一の経世済民思想』 日本評論社、2002年
- 見城悌治 『渋沢栄一 「道徳」と経済のあいだ』 日本経済評論社、2008年 ISBN 9784818820241
- 東京商工会議所編 『渋沢栄一 日本を創った実業人』 講談社+α文庫、2008年、ISBN 9784062812351
- 山本七平 『渋沢栄一 近代の創造』 新版・祥伝社、2009年
- 大佛次郎 『激流 渋沢栄一の若き日』 新版・未知谷、2009年
- 城山三郎 『雄気堂々』 新潮文庫 全2巻、改版2003年
- 童門冬二 『渋沢栄一 人間の礎』 学陽書房<人物文庫>、1998年
- 津本陽 『小説渋沢栄一』 新版・幻冬舎文庫 全2巻、2007年
栄典
- 1892年(明治25年)7月19日: 勲四等瑞宝章(民間人初の叙勲)
- 1911年(明治44年)8月24日: 勲一等瑞宝章
- 1928年(昭和3年)11月10日: 勲一等旭日桐花大綬章
補注
- ^ 渋沢栄一『論語と算盤』(角川ソフィア文庫)(角川学芸出版 ISBN 978-4044090012 2008年10月25日)、22頁。
- ^ 渋沢栄一『論語と算盤』(角川ソフィア文庫)(角川学芸出版 ISBN 978-4044090012 2008年10月25日)、49頁(一部の漢字を現代語風にひらがなに改めて引用)。
- ^ 庶子を合わせると20人くらいになるという。澁澤は女性関係が派手だったようで、大蔵省時代には自宅に妾と同居していたこともある。
- ^ 渋沢秀雄は、以後も『父 渋沢栄一』(上下巻、実業之日本社、1959年)、『渋沢栄一』(時事通信社、1965年)、『明治を耕した話 父・渋沢栄一』(青蛙房、1977年)など多くの著作を出した。
- ^ 「サン=シモン主義者 渋沢栄一」の題名で、『諸君!』1999年8月号から長期連載したが長らく未刊だった。
関連項目
- 渋沢史料館 - 渋沢栄一の生涯と事績に関する博物館。現存する旧本邸の建物(晩香廬、青淵文庫)を公開。
- 古牧温泉 - 渋沢公園内に旧三田綱町邸が移築保存されている。
- 南湖神社 - 松平定信公が祭神。建てられる際に渋沢も支援している。
- 渋沢財閥
外部リンク
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固有名詞の分類
| 日本の実業家 |
飯田新一 久世庸夫 渋沢栄一 加島恵太郎 藤巻幸夫 |
| 実業家 |
諸井貫一 中橋徳五郎 渋沢栄一 三浦新七 藤巻幸夫 |
| 明治時代の人物 |
坪野平太郎 森鴎外 渋沢栄一 外山正一 大口喜六 |
| 日本の財務官僚 |
川崎実 久世庸夫 渋沢栄一 伊吹文明 松川隆志 |
| 日本の男爵 |
小池正弘 西竹一 渋沢栄一 松平正直 松田正久 |
| 日本の銀行家 |
柿内愼市 日原昌造 渋沢栄一 三浦新七 横尾敬介 |
| 日本の子爵 |
本多忠鋒 実吉安純 渋沢栄一 松前修広 織田信親 |
| 日本の鉄道実業家 |
南谷昌二郎 志賀直温 渋沢栄一 堤義明 柴谷貞雄 |
| みずほフィナンシャルグループの人物 |
青木建 衛藤博啓 渋沢栄一 横尾敬介 下条みつ |
| 日本の海事実業家 |
荘田平五郎 中橋徳五郎 渋沢栄一 京極高晴 草刈隆郎 |
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