久武親信とは? わかりやすく解説

久武親信(ひさたけ ちかのぶ) ????~1579


久武親信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/23 10:59 UTC 版)

久武 親信(ひさたけ ちかのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将長宗我部氏の家臣。通称は内蔵助。名は親定とも[1]

 
久武 親信
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 生年不詳
死没 天正7年5月21日1579年6月15日
別名 親定
官位 内蔵助
主君 長宗我部元親
氏族 久武氏
父母 久武昌源
兄弟 親信親直
テンプレートを表示

概要

土佐国(現・高知県)の武将・久武昌源の子として誕生。弟に久武親直がいる。

土佐国の戦国大名長宗我部元親に仕え、その誠実な性格から元親に重用され、高岡郡佐川城を与えられた。

天正5年(1577年)、伊予国南部(現・愛媛県南予地方)方面の軍を担当する総指揮権(伊予軍代)を与えられ、川原崎氏を討つ。しかし、天正7年(1579年)に伊予宇和郡岡本城を攻撃中に、城を守る土居清良の奇略に遭って討ち死にした。

親信は有馬温泉羽柴秀吉と会見したことがあり、そのとき、秀吉の器量のほどを知ったといわれている。

弟・親直へは常々危惧を抱き、岡本城攻防戦で討死する直前、主君・元親に向けて「弟の彦七(親直)は腹黒き男ゆえ、お取立て召されるな」と言い残したといわれている。この危惧は的中し、親直は讒言を繰り返して反対派を粛清、元親の跡を継いだ四男・長宗我部盛親の代になっても盛親の三兄・津野親忠の殺害に絡むなど暗躍したため、関ヶ原の戦いでの敗戦後に長宗我部氏を改易へ導く要因となった。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 山本大小和田哲男 『戦国大名家臣団事典 西国編』新人物往来社、1981年8月25日、225頁。ISBN 9784404010766 



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「久武親信」の関連用語

久武親信のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



久武親信のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
戦国武将覚書戦国武将覚書
Copyright (C) 2024 戦国武将覚書 All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの久武親信 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS