三好政権
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三好政権(みよしせいけん)は、天文18年(1549年)から永禄11年(1568年)まで存在した、戦国時代の日本の武家政権である。同時代における他の戦国大名の地方政権とは大きく異なる中央政権であったと言われる[1]。そのため、織田政権に先立つ統一政権の先駆的な存在であると評価されることもある[注釈 1][2]。
注釈
- ^ 天野忠幸は「プレ統一政権」と表記
出典
- ^ 今谷 & 天野, pp. 17–18.
- ^ 天野 2010, pp. 344–345.
- ^ 天野 2015, p. 59-60.
- ^ 馬部 2018, pp. 618-621・665-667・688-704.
- ^ 馬部 2018, pp. 705–719.
- ^ a b 今谷, p. 227.
- ^ 今谷 & 天野, p. 169.
- ^ 天野 2015, pp. 62–63.
- ^ 今谷 & 天野, p. 173.
- ^ a b 天野 2014, p. 133.
- ^ a b 天野 2014, p. 134.
- ^ 長江, p. 229.
- ^ 古野貢『中世後期細川氏の権力構造』吉川弘文館、2008年、286-287 ,307-308頁。
- ^ 天野 2010, pp. 83, 344–345.
- ^ 水野嶺「義輝の政治活動とその原因」『戦国末期の足利将軍権力』(吉川弘文館、2020年) ISBN 978-4-642-02962-9 P115-118・125.
- ^ 小山, 天野忠幸「十河一存と三好氏の和泉支配」.
- ^ a b c d e f 今谷 & 天野, p. 17.
- ^ 今谷 & 天野, p. 18.
三好政権
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系譜に従えば、父・長秀が没したとされる永正6年(1509年)には誕生していたと推測されるが、正確な生年は不詳。 三好氏の一門衆で、甥に当たる宗家当主・三好長慶に従い、その弟で阿波国主の三好実休に仕えて、篠原自遁・加地盛時と共に実休の家臣として活動した。三好の本貫地である阿波を拠点とする。 永禄元年(1558年)に長慶が京都郊外で室町幕府13代将軍・足利義輝、細川晴元と対峙した際は実休ら四国勢の先鋒として畿内に上陸。永禄3年(1560年)3月、長慶・実休兄弟の和解の仲介役を果たし、河内遠征でも実休の名代として長慶と対面した。 永禄5年(1562年)3月の久米田の戦い、同年5月の教興寺の戦いなどで活躍した。同年の実休の死後は拠点を河内高屋城に前進させ、他の家臣団と協力して実休の遺児・三好長治を支えた一方で、茶人としての活動も見られ、津田宗達・宗及父子の茶会に度々出席している。 永禄7年(1564年)の長慶の死後、三好宗家の家督は大甥に当たる三好義継(長慶の甥)が相続したが、三好三人衆と松永久秀が敵対して家中が分裂すると、康長は三人衆側に同調した。 永禄9年(1566年)2月の上芝の戦いに参戦し、5月に久秀が侵入した堺を三人衆と共に包囲した。しかし、翌永禄10年(1567年)2月に義継が突如三人衆の下から逃れて高屋城から脱出し、堺へ赴き久秀と手を結ぶ。康長と安見宗房も義継に従って久秀側へと一時的に鞍替えしたが、すぐに反目。永禄11年(1568年)2月には三人衆が担いだ14代将軍・足利義栄の将軍就任の祝賀会と考えられる大宴会に出席して、その頃には義継の元を去っている。この宴会には、阿波三好家の大軍を率いる篠原長房も参加しており、康長・三人衆らは同年6月に松永方の細川藤賢が守る大和信貴山城を落し、9月には筒井順慶と結んで多聞山城を落とすなどして、松永勢を追い込んだ。 「信貴山城#信貴山城の戦い」も参照 この頃、茶会において咲岩の法名の使用がすでに見られる。
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三好政権
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越水城は、三好氏の本国阿波と畿内とを結ぶ重要な拠点であり、天文8年(1539年)8月には、元長の子、三好長慶が居城としている。天文10年9月、伊丹城の伊丹親興が越水城に攻め寄せたが長慶はこれを撃退している(太平寺の戦い)。 六角義賢の書状 この書状は、天文21年(1552年)5月29日に近江の六角義賢が当時の越水城主三好長慶に送った書状。江口の戦いで長慶によって京を追われた細川晴元は六角義賢の仲介によって和解した。その条件は、晴元は出家し息子の聡明丸(後の細川昭元)に家督を継ぎ、成人するまでは高国の子・細川氏綱に管領職を任せるという内容であった。この書状の内容は、仲介役を果たした義賢が聡明丸の処遇を長慶に相談したものになる。書状の2行目に「越水帰陣」という記載が見受けられる。その書状が届いた後、聡明丸は越水城に移動することになる。 天文22年(1553年)長慶は居城を京に近い芥川山城に移し、越水城には松永久秀を置いた。その後、松永久秀は滝山城を改修し、長慶を招いた。 三好長慶の死後は、芥川山城に入った三好長逸(三好三人衆)と松永久秀が反目し、永禄9年(1566年)2月、東大寺大仏殿の戦いにおいて、松永方の瓦林三河守が越水城主となっていたが、永禄9年(1566年)6月に阿波・讃岐の軍勢を引き連れた三好家の重臣・篠原長房により落城し、その居城となった。この時、足利義栄(後の14代将軍)が9月23日に越水城に入城し、12月5日には摂津富田の総持寺に、同月7日には普門寺に入っている。
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三好政権
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天文10年(1541年)9月、細川晴元の命令により、その重臣・三好長慶(摂津越水城主)が三好政長(摂津榎並城主)、池田信正(摂津池田城主)らと旧高国派であった摂津一庫城の塩川政年を攻めると、親興や三宅国村(摂津三宅城主)は一庫城攻撃の不当性を将軍・足利義晴に直訴し、木沢長政に救援を依頼。親興自身も援軍に向かった為、三好長慶らは一庫城の攻囲を解き、同年9月29日に越水城に退却した(一庫城の戦い)。この戦いは三好長慶と木沢長政の太平寺の戦いに発展した。 天文14年(1545年)には、細川晴元、三好長慶に協力して細川氏綱(細川高国の子)と戦った。 天文17年(1548年)末、三好長慶が主君・細川晴元に叛旗を翻すと親興は晴元に味方した。翌天文18年(1549年)6月、三好長慶は三好政長を破り細川晴元を敗走させ(江口の戦い)、伊丹城を囲んだ。しかし親興は城を守り通し、翌天文19年(1550年)3月に遊佐長教の仲介で和睦した。 永禄元年(1558年)、六角義賢が三好政勝(三好政長の子)、香西元成と共に足利義輝を奉じて上洛を図ると、親興は池田勝正、松永久秀、三好長逸と共に三好長慶の元に参陣している。 永禄5年(1562年)5月の三好長慶と畠山高政との教興寺の戦いでも親興は、三好方として戦っている。 永禄7年(1564年)三好長慶が病死し、三好三人衆と松永久秀・三好義継の間で権力争いが始まると親興は久秀に味方し、永禄9年(1566年)5月摂津池田城の池田勝正を攻撃している。しかし、同年6月11日に兵庫浦に上陸した、三人衆方の阿波三好氏と讃岐十河氏の軍勢を率いる篠原長房の攻撃を受け、同年8月17日に松永久秀の西摂の拠点であった滝山城が落城すると、翌9月5日に親興も三好三人衆に下った(東大寺大仏殿の戦い)。
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