山中幸盛・品川将員の一騎討ち
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山中幸盛・品川将員の一騎討ち(やまなかゆきもり・しながわまさかずのいっきうち)は、永禄8年9月(1565年9月)に、月山富田城下の富田川の中州(現在の島根県安来市広瀬町)で行われた、山中幸盛と益田家の侍大将品川将員の一騎討ちの戦いである。戦った場所が中州であったため、別名「川中島の一騎討ち」とも呼ばれる。この戦いの結果は、幸盛が将員を討ち取り勝利した[1]。
- ^ 『太閤記』巻十九「山中鹿助伝」。『雲陽軍実記』第四巻「山中鹿之助、品川大膳、富田川中嶋合戦の事」。『陰徳太平記』巻三十九「山中鹿の助品川狼の助合戦之事」。
- ^ 『雲陽軍実記』によれば、「自分は抜群の大勇力を持ちながら、運悪くこれまで万人の目を驚かすほどの高名がない。尼子には、山中幸盛、立原久綱、熊谷新右衛門の三傑(三勇)といわれる人物がいるが、その1人なりとも出会い、一騎討ちの勝負をして名を後世に残したい。特に幸盛は軍智博学・勇猛兼備の者なので、討ち取れば比類の無い高名を得ることができるだろう」と思い、毎日城を出て敵陣の様子を探っていた。『太閤記』によれば、武勇に優れ、高名を得たいと願う将員は「(最近、)度々武功を挙げ勇名をはせる幸盛を討って、自分の名を中国地方に轟かせたい」と望んでいた。『陰徳太平記』によれば、将員は「この頃富田城に、山中鹿助という鬼神の様に人に恐れられる者がいる。彼と真剣勝負をしたい」と常日頃から言っていた。
- ^ 『雲陽軍実記』より。「鹿は棫の木(タラノキ)の若芽を食べると角を落す。狼はよく鹿を取る」と言って棫木狼之介勝盛と改名した。『太閤記』は品川狼助。「鹿を従えるものは狼だろう」。『陰徳太平記』は品川狼助勝盛。「鹿に勝つ者は狼だ」。
- ^ 『雲陽軍実記』では、幸盛は将員へ一騎討ちの詳細を尋ねたが、将員から返答はなかった。『陰徳太平記』では、一騎討ちの日は別に定め、お互いに得意武器を使用し、2人だけで勝負することを約束して分かれている。
- ^ 『雲陽軍実記』は、毛利軍の兵300、尼子軍の兵は不明。後に立原久綱が2~300の兵で参戦。『太閤記』は、両軍の兵数は不明。『陰徳太平記』は、毛利軍の益田の兵300と、その他自軍の見物人が数え切れないほどいた。尼子軍の兵は5~600。
- ^ a b 雁股の矢は、鏃の先が二股の形に開き、その内側に刃のある鏃(やじり)をした矢。
- ^ 「宗信の弓の腕前は、養由基に直々に伝えられたと評されるほど優れていて、柳の葉を的にして射ることができる」と尼子軍は宗信を賞賛している。
- ^ 約4尺(120cm)の大太刀。
- ^ 3尺2寸(96cm)の備州長船則光の太刀。
- ^ 互いに、蛛手、開く手、獅子の洞入、虎乱入と手練を尽くして戦った。しかし、その間、両者ともかすり傷ひとつ負わなかった。
- ^ 幸盛の太刀の腕前は、趙雲の槍技を越え、鞍馬天狗の秘術を得た義経にも劣らない。打ち合いでは自分はかなわないが、力の強さは自分が勝る。
- ^ その様子は、野見宿禰の相撲勝負以上と記す。
- ^ a b どちらが先に向かったかは不明。
- ^ 弓の姫反から胴にかかるまでの湾曲部分。弓上部の大きな湾曲部分。
- ^ 「討鹿者不見川」(「鹿を討つ者は川を見ず」)と記した笠符(笠印)をつけていた。
- ^ 約2尺3寸(69cm)の小太刀。
- ^ 約3尺(90cm)、柄が約1尺7・8寸(51cm~54cm)の大太刀
- ^ 一方の肩から他方の腋へかけて、刀で斬り下げること。
- ^ 将員は、うつ伏せに倒れる途中に踏み込み、斬りつけた。
- ^ 著者である香川景継は「もし宗信の助けが無ければ、狼という名にふさわしい結果となっていた」と記す。
- 1 山中幸盛・品川将員の一騎討ちとは
- 2 山中幸盛・品川将員の一騎討ちの概要
- 3 一騎討ちまでの経緯
- 4 参考文献
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