雲陽軍実記とは? わかりやすく解説

雲陽軍実記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 06:26 UTC 版)

雲陽軍実記』(うんようぐんじつき)は、出雲国戦国大名であった尼子氏の歴史を記した歴史書で、日本の古典文学の1つである。




「雲陽軍実記」の続きの解説一覧

雲陽軍実記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 16:12 UTC 版)

弓浜合戦」の記事における「雲陽軍実記」の解説

合戦際し尼子軍は兵を2つ分けたのに対し毛利軍は兵を分けず挑んだ合戦は、尼子軍の将・森脇久仍本田家吉率い第1陣部隊と、毛利軍の将・杉原盛重率いるの2,000部隊との衝突により始まった。 この最初の衝突は、隘路地形たくみに利用して戦った毛利軍尼子軍圧倒した尼子軍第1陣敗れて引くと、次に入れ替わって戦ったのは第2陣控え山中幸盛立原久綱率いる1,000部隊であった。この第2陣尼子軍は、馬を四方立て弓鉄砲隊を密集させた九布陣敷いて毛利軍挑んだ。 この2度目戦いは、尼子軍毛利軍圧倒した毛利軍部隊維持できずに敗走始め、さらに10町(約10km)ばかり敗走した所で、第2陣後陣控えていた秋上宗信率い部隊横槍を入れられ、大崩となって壊走した。 壊走した毛利軍は弓浜(現在の鳥取県境港市米子市連なる弓ヶ浜半島。)まで逃げてくると、この地で部隊再編を図る。毛利軍の将・盛重は、小高い地に旗を掲げて敗軍の兵600700集めた。ところが、そこには尼子軍将・吉八郎左衛門率い遊軍伏兵部隊がいたため、さらに追撃を受け被害出しながら尾高城へと退却した

※この「雲陽軍実記」の解説は、「弓浜合戦」の解説の一部です。
「雲陽軍実記」を含む「弓浜合戦」の記事については、「弓浜合戦」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「雲陽軍実記」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「雲陽軍実記」の関連用語

雲陽軍実記のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



雲陽軍実記のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの雲陽軍実記 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの弓浜合戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS