源平合戦とは? わかりやすく解説

治承・寿永の乱

(源平合戦 から転送)

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治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる国内各地の内乱であり、平清盛を中心とする伊勢平氏正盛流に対する反乱である。反平家勢力の中には祖を同じとする坂東平氏も含まれており遠戚間の対立、嫉妬に契機を発した抗争でもある。日宋貿易で得られた富を中央政府側で独占し、その財と権力で栄華を極め、傍若無人に振る舞った平家に他勢力が不満を募らせたことで反乱を招いた。このことから、平家の繁栄と没落を描いた叙述書、平家物語冒頭の「驕れる者も久しからず」という一文は「財や地位、権力を盾に威張る者は平家のようにいずれ滅びる」という意味の諺にもなっている[1]




「治承・寿永の乱」の続きの解説一覧

源平合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 07:58 UTC 版)

小山朝政」の記事における「源平合戦」の解説

治承4年1180年)、源頼朝平氏打倒兵を挙げ9月3日朝政参向求め書状送られる10月2日寒河尼実子結城朝光伴って頼朝の下に参じ朝政その後早い時期従った考えられている。 寿永2年1183年2月頼朝御家人らは鎌倉襲来する風聞された平氏のため駿河国に在った。2月20日常陸国志田に住む志田義広鎌倉攻め兵を挙げ、三万余騎を率い下野へと到る頼朝下野に在った朝政にその対応を託し朝政助けるため弟・長沼宗政らが鎌倉発する2月23日義広鎌倉向けて軍を発し、それに加わるよう朝政を誘う。朝政鎌倉攻めに加わると偽り、兵を野木宮に伏せた喜んで朝政の館に向かった義広野木宮に至ると、潜んでいた朝政らは義広攻めた朝政義広放った矢を受け落馬するが、野木宮の西南に陣を引いた義広を、朝政宗政は東から攻め破った野木宮合戦)。 2月28日使者発し頼朝戦勝告げる。頼朝志田義広与した常陸下野・上野国の武士所領収公し、朝政らは恩賞得た元暦元年1184年8月8日源範頼平氏追討為に京へ向い9月2日朝政はそれに属せよとの命を受け鎌倉発するその際朝政兵衛尉望み、京でその任官受けた元暦2年1185年1月26日、範頼らと共に周防国から船で豊後国に渡る。3月11日兵糧の不足に苦しむ範頼の軍の中で、他の御家人と共に頼朝より慇懃の書を受ける。3月24日壇ノ浦の戦い平家一門滅びた4月15日頼朝は内挙を得ず任官受けた御家人らの帰国禁じ書状発し朝政もそれに入れられ書状には「鎮西下向するの時、京に於いて拝任せしむ事、駘馬の道草喰らう如しと書かれた。しかし10月24日には朝政許されており、鎌倉行われた源義朝法要参列する。この法要鎌倉頼朝と京の源義経対立する中で、三千人弱の主要な御家人集めて営まれた。法要が終わると頼朝明日上洛との意を述べ御家人集める。その中でも明暁に進発する者を募り朝政はそれに応えた58人中筆頭であった11月1日頼朝の軍は駿河黄瀬川達し義経戦わずして京を落ちた以降朝政鎌倉行われる儀式多く名を連ねる事となる。

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源平合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 04:50 UTC 版)

摂津源氏」の記事における「源平合戦」の解説

平氏政権下で清和源氏最高位従三位となった源頼政馬場頼政)は、摂津国渡辺津(現・大阪市中央区)を本拠地とする滝口武者である嵯峨源氏渡辺氏郎党とし、彼は父の仲政と同じく馬場号した。しかし、治承4年1180年以仁王の挙兵呼応して平重衡平維盛戦い討ち死した源頼政の孫・源有綱は、頼政知行国であった伊豆あり難逃れ直後同地配流の身であった源頼朝挙兵するとその麾下入った。有綱は源義経付属し頼朝義経対立した後も都を落ち義経一行加わった文治2年1186年6月16日大和国宇陀郡義経残党捜索していた北条時定戦い自害した一方多田源氏嫡流多田行綱(頼盛の嫡子)は、安元3年1177年)の鹿ケ谷での謀議密告したとされるその後、源平合戦(治承・寿永の乱)では一族郎党率いて源義経軍の一翼形成し一ノ谷の戦いでは抜群戦功挙げたが、平家滅亡後源頼朝から疎まれ多田所領没収された。

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源平合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 21:56 UTC 版)

清和源氏」の記事における「源平合戦」の解説

治承4年1180年)、平氏政権での皇位継承の不満から反乱企図した以仁王源頼政摂津源氏)が協力する以仁王の挙兵)。この乱は失敗する熊野潜んでいた義朝の弟の源行家らが以仁王の令旨全国伝えると、河内源氏源頼朝源希義土佐冠者)、源範頼源義円源義経兄弟や、源義朝の弟の源義賢の子であり、頼朝従兄弟にあたる源義仲木曾次郎義仲)、源義光の子孫の武田信義安田義定甲斐源氏)、山本義経柏木義兼近江源氏)、義国の子孫の足利義清下野源氏)、新田氏庶流山名義範里見義成、そして新田義重上野源氏)、摂津源氏では、源頼綱を祖とする嫡流多田行綱多田源氏)、源頼綱弟国房を祖とする源光長美濃源氏)、大和源氏では、源親治らが各地挙兵し俗に源平合戦と呼ばれる治承・寿永の乱発生する当初平家源氏圧倒しており、頼朝の弟の希義が敗死している。しかし次第形勢逆転して平家源義仲京都追われた。その後源義仲軍と源頼朝軍・平家三つ巴となった頼朝軍が圧倒していき、寿永3年1184年)に粟津の戦い義仲軍を、元暦2年1185年)に壇ノ浦の戦い平家滅ぼして頼朝軍が勝利した

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源平合戦

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百人一首」の記事における「源平合戦」の解説

源平とは源氏平氏のこと。二チーム分かれて団体戦を行うのが源平合戦の遊び方である。 散らし取り同様に絵札と字分け読み手一人選ぶ。 百枚の字五十ずつに分けそれぞれのチームに渡す。両チームはそれを3段整列して並べる。 散らし取り同様に読まれた首の字札を取る。この時、相手チーム取った時は、自分チーム一枚相手チームに渡す。これを「送り」という。 先になくなったチームの勝ちとなる。 北海道行われる下の句かるた大会はほとんどがこのルールであり、民間でも一般的である。

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