治承・寿永の乱
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治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる国内各地の内乱であり、平清盛を中心とする伊勢平氏正盛流に対する反乱である。反平家勢力の中には祖を同じとする坂東平氏も含まれており遠戚間の対立、嫉妬に契機を発した抗争でもある。日宋貿易で得られた富を中央政府側で独占し、その財と権力で栄華を極め、傍若無人に振る舞った平家に他勢力が不満を募らせたことで反乱を招いた。このことから、平家の繁栄と没落を描いた叙述書、平家物語冒頭の「驕れる者も久しからず」という一文は「財や地位、権力を盾に威張る者は平家のようにいずれ滅びる」という意味の諺にもなっている[1]。
- 1 治承・寿永の乱とは
- 2 治承・寿永の乱の概要
源平合戦
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治承4年(1180年)、源頼朝は平氏打倒の兵を挙げ、9月3日、朝政は参向を求める書状を送られる。10月2日、寒河尼は実子・結城朝光を伴って頼朝の下に参じ、朝政もその後の早い時期に従ったと考えられている。 寿永2年(1183年)2月、頼朝の御家人らは鎌倉に襲来すると風聞された平氏のため駿河国に在った。2月20日、常陸国志田に住む志田義広は鎌倉を攻める兵を挙げ、三万余騎を率い下野へと到る。頼朝は下野に在った朝政にその対応を託し、朝政を助けるため弟・長沼宗政らが鎌倉を発する。2月23日、義広は鎌倉へ向けて軍を発し、それに加わるよう朝政を誘う。朝政は鎌倉攻めに加わると偽り、兵を野木宮に伏せた。喜んで朝政の館に向かった義広が野木宮に至ると、潜んでいた朝政らは義広を攻めた。朝政は義広の放った矢を受け落馬するが、野木宮の西南に陣を引いた義広を、朝政と宗政は東から攻め破った(野木宮合戦)。 2月28日、使者を発し頼朝に戦勝を告げる。頼朝は志田義広に与した常陸・下野・上野国の武士を所領を収公し、朝政らは恩賞を得た。 元暦元年(1184年)8月8日、源範頼は平氏追討の為に京へ向い、9月2日、朝政はそれに属せよとの命を受け鎌倉を発する。その際に朝政は兵衛尉を望み、京でその任官を受けた。元暦2年(1185年)1月26日、範頼らと共に周防国から船で豊後国に渡る。3月11日、兵糧の不足に苦しむ範頼の軍の中で、他の御家人らと共に頼朝より慇懃の書を受ける。3月24日、壇ノ浦の戦いで平家一門は滅びた。 4月15日、頼朝は内挙を得ず任官を受けた御家人らの帰国を禁じる書状を発し、朝政もそれに入れられ書状には「鎮西に下向するの時、京に於いて拝任せしむ事、駘馬の道草を喰らうが如し」と書かれた。しかし10月24日には朝政は許されており、鎌倉で行われた源義朝の法要に参列する。この法要は鎌倉の頼朝と京の源義経が対立する中で、三千人弱の主要な御家人を集めて営まれた。法要が終わると頼朝は明日上洛との意を述べ御家人を集める。その中でも明暁に進発する者を募り、朝政はそれに応えた58人中の筆頭であった。11月1日、頼朝の軍は駿河黄瀬川に達し、義経は戦わずして京を落ちた。以降、朝政は鎌倉で行われる儀式に多く名を連ねる事となる。
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源平合戦
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平氏政権下で清和源氏最高位の従三位となった源頼政(馬場頼政)は、摂津国の渡辺津(現・大阪市中央区)を本拠地とする滝口武者である嵯峨源氏の渡辺氏を郎党とし、彼は父の仲政と同じく馬場を号した。しかし、治承4年(1180年)以仁王の挙兵に呼応して平重衡・平維盛と戦い、討ち死した。 源頼政の孫・源有綱は、頼政の知行国であった伊豆にあり難を逃れ、直後に同地で配流の身であった源頼朝が挙兵するとその麾下に入った。有綱は源義経に付属し、頼朝と義経が対立した後も都を落ちる義経の一行に加わった。文治2年(1186年)6月16日、大和国宇陀郡で義経の残党を捜索していた北条時定と戦い自害した。 一方、多田源氏の嫡流多田行綱(頼盛の嫡子)は、安元3年(1177年)の鹿ケ谷での謀議を密告したとされる。その後、源平合戦(治承・寿永の乱)では一族郎党を率いて源義経軍の一翼を形成し、一ノ谷の戦いでは抜群の戦功を挙げたが、平家滅亡後源頼朝から疎まれ、多田の所領を没収された。
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源平合戦
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治承4年(1180年)、平氏政権での皇位継承の不満から反乱を企図した以仁王に源頼政(摂津源氏)が協力する(以仁王の挙兵)。この乱は失敗するが熊野に潜んでいた義朝の弟の源行家らが以仁王の令旨を全国に伝えると、河内源氏の源頼朝、源希義(土佐冠者)、源範頼、源義円、源義経ら兄弟や、源義朝の弟の源義賢の子であり、頼朝の従兄弟にあたる源義仲(木曾次郎義仲)、源義光の子孫の武田信義・安田義定(甲斐源氏)、山本義経・柏木義兼(近江源氏)、義国の子孫の足利義清(下野源氏)、新田氏庶流の山名義範、里見義成、そして新田義重(上野源氏)、摂津源氏では、源頼綱を祖とする嫡流多田行綱(多田源氏)、源頼綱の弟国房を祖とする源光長(美濃源氏)、大和源氏では、源親治らが各地で挙兵し、俗に源平合戦と呼ばれる治承・寿永の乱が発生する。 当初は平家が源氏を圧倒しており、頼朝の弟の希義が敗死している。しかし次第に形勢が逆転して平家は源義仲に京都を追われた。その後、源義仲軍と源頼朝軍・平家の三つ巴となったが頼朝軍が圧倒していき、寿永3年(1184年)に粟津の戦いで義仲軍を、元暦2年(1185年)に壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼして頼朝軍が勝利した。
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源平合戦
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源平とは源氏と平氏のこと。二チームに分かれて団体戦を行うのが源平合戦の遊び方である。 散らし取り同様に絵札と字札を分け、読み手を一人選ぶ。 百枚の字札を五十枚ずつに分け、それぞれのチームに渡す。両チームはそれを3段に整列して並べる。 散らし取り同様に読まれた首の字札を取る。この時、相手のチームの札を取った時は、自分のチームの札を一枚相手チームに渡す。これを「送り札」という。 先に札のなくなったチームの勝ちとなる。 北海道で行われる下の句かるた大会はほとんどがこのルールであり、民間でも一般的である。
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