治承・寿永の乱
(源平の争乱 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/14 07:27 UTC 版)
治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる国内各地の内乱であり、平清盛を中心とする伊勢平氏正盛流に対する反乱である。反平家勢力の中には祖を同じとする坂東平氏も含まれており遠戚間の対立、嫉妬に契機を発した抗争でもある。日宋貿易で得られた富を中央政府側で独占し、その財と権力で栄華を極め、傍若無人に振る舞った平家に他勢力が不満を募らせたことで反乱を招いた。このことから、平家の繁栄と没落を描いた叙述書、平家物語冒頭の「驕れる者も久しからず」という一文は「財や地位、権力を盾に威張る者は平家のようにいずれ滅びる」という意味の諺にもなっている[1]。
- 1 治承・寿永の乱とは
- 2 治承・寿永の乱の概要
源平の争乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:45 UTC 版)
治承・寿永の乱(源平合戦)において、江戸氏は治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵した時、武蔵国内で勢力を拡大した秩父平氏の有力な一角となっていた。江戸重継の子・重長は初め頼朝と対立して、衣笠城合戦で畠山重忠・河越重頼と共に頼朝方の三浦義明を討って衣笠城を落城させた。頼朝が再び安房から挙兵した際には、周辺の豊島氏・葛西氏は頼朝にすぐ従ったが重長は畠山・河越と共に従わず、頼朝が武蔵鎌倉に入る障害となった。 「吾妻鏡」9月28日条によると、頼朝は秩父一族の切り崩しを図って重長に使いを送り、「畠山重能・小山田有重が在京している今、武蔵は汝が棟梁である。もっとも頼りにしているので近辺の武士達を率いて参上せよ」と伝えたとされる。「棟梁」と呼ぶことで重長を懐柔しようとしたとみられる。しかし重長が応じないため、29日条で既に頼朝に参陣していた秩父一族の葛西清重に大井の要害へ重長を誘い出し討ち取るよう命じている。なお葛西清重は追討せず、重長への説得を続けたとみられる。 「吾妻鏡」10月4日条に至り、重長は畠山重忠や河越重頼と共に頼朝に帰伏する。頼朝は「重長らは源家に弓を引いた者であるが、このように勢力の有る者を取り立てなければ目的は成し遂げられないであろう。憤懣を残してはならない」と当主を江戸氏らに討たれた三浦一族に言い聞かせ、三浦氏は異心を抱かないとして、重忠らとお互いに目を合わせ、納得して席に並んだという。江戸氏が頼朝になかなか帰参しなかった理由として、この三浦氏との確執問題があったとみられ、頼朝が配慮したとみられる。 翌日には、重長は頼朝から武蔵の在庁官人や諸郡司を統率して国の諸雑事を沙汰する権限を与えられた。このときに重長に秩父氏の家督が与えられたとみられる。ただし、この権限・秩父氏家督は後に河越重頼が有しており、江戸氏には継承されなかった。重長はその後、文治5年(1189年)の奥州合戦にも従軍し、奥州藤原氏討伐のため鎌倉を出陣する頼朝に従った。 なお「義経記」において「坂東八ヵ国の大福長者」と記された重長が舟橋を作り頼朝の軍勢を渡河させたなどと、後世の軍記物では重長は「吾妻鏡」に比べて大幅にその影響力が誇張されている。「大福長者」については、当時の江戸氏は然程強勢でなく先述の国の諸雑事を沙汰する権限が姿を変えたとする意見や、実際に繁栄していた江戸氏の富の多さを示すとする意見もある。
※この「源平の争乱」の解説は、「江戸氏」の解説の一部です。
「源平の争乱」を含む「江戸氏」の記事については、「江戸氏」の概要を参照ください。
源平の争乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 05:47 UTC 版)
家督を継いだ秩父重隆は、下野国の藤姓足利氏や上野国の新田義重、その保護者・同盟者である源義朝と争っていた。また義朝と結んだ甥の畠山重能とも家督を巡って対立していた。重隆は源義賢を娘婿に迎えて対抗したが、両人は1155年(久寿2年)に源義平に討たれた(武蔵国大蔵合戦)。 1156年(保元元年)の保元の乱で、河越重頼は源義朝の下で平家と戦った。しかし1159年(平治元年)の平治の乱で源義朝が敗死。その後は平家に従った。 1180年(治承4年)、源頼朝の挙兵後、秩父氏の一族ははじめ平家方につき、畠山重忠・河越重頼・江戸重長は衣笠城合戦で三浦義明を討ち取った。源頼朝が再び安房から北上して武家政権を打ち建てようとした時も、江戸重長らが下総で頼朝軍を足止めしている。しかし、葛西清重の奔走によって畠山重忠・河越重頼・江戸重長らは頼朝に服属し源氏方として平家と戦い、鎌倉幕府の設立に尽力した。
※この「源平の争乱」の解説は、「秩父氏」の解説の一部です。
「源平の争乱」を含む「秩父氏」の記事については、「秩父氏」の概要を参照ください。
源平の争乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 02:10 UTC 版)
後の世の粉飾が入らない資料の中で、農村での武士団の社会密度の変化がうかがえるもとして、『信貴山縁起絵巻』(しぎさんえんぎえまき)と、『粉河寺縁起絵巻』がある。 前者は12世紀前半の鳥羽上皇院政前期、後者は12世紀後半の後白河院政の頃の作品とも言われる。それらの絵巻には、信貴山は大和国、粉河寺は紀伊国、と畿内でも隣接した地方の長者の家が描かれているが、前者には警護の武者も、門の前の空堀も、門の上の櫓も無いのに対し、後者ではそれらが描かれている。義江彰夫は同じ12世紀ながら、その初期と後期との間に地方の長者、すなわち開発領主の武装(武士団化)が進んだとしている。 『粉河寺縁起絵巻』は後白河法皇のプロデュースとも言われるが、はっきりはぜず、その成立時期は、12世紀後半から13世紀初頭までと諸説ある。仮に後白河法皇の承安版『後三年絵』と同時期の1171年(承安元年)前後としても、『信貴山縁起絵巻』から、『愚菅抄』において慈円が「日本国の乱逆と云ふことはをこりて後、むさ(武者)の世になりける也」と書いた「保元の乱」、「平治の乱」を挿んで、更にその10年近く後ということになる。確かにこの間にも、在地社会での大きな変動があった。 また仮にもっとも遅い13世紀説が正しいとすれば、当然源平の争乱の後ということになる。その何十年かの間に、畿内の領主の一般像が、武装せぬ存在から、武士と武具を常備し、屋敷の守りも固める鎌倉時代の御家人・地頭にも似た、あるいはその御家人の姿に変貌していったことを如実に物語っている。 2つの絵巻は傍証にしか過ぎないが、武士団の蔓延はいつから、という問いに対しては、ちょうど12世紀に入ろうとする頃から、「保元の乱」、「平治の乱」を第一の節目として、更に源平の争乱においてピークに達したと見られている。二つの乱により、それまで京武者のよりどころであった摂関家家政機構の中の武力は解体し、一方の院北面は平家の一人勝ちにより機能停止する。そして平家は京の内裏警護の為に、おそらくは国衙を通じて、諸国の武士の在京勤務、大番役を始める。これは地方の領主達にとって負担も確かに大きいものの、一方で「ハレ」の場であり、中央の勢力とのコネクションを得る為にもと意気込み、それがまた「武士身分の獲得」ともなった。 そして、1180年の源頼朝の挙兵以降、平家は高倉院の命として、公卿、受領から「兵士」を徴収、更に権門の諸荘園からも「兵士」を徴収する。また、それを攻める木曾義仲軍は、由緒正しい武士ばかりか「東国武士は夫(人夫)までが弓箭にたづさいて候えば」と報告されるように、人夫までが弓箭を携えて戦闘に参加する。更に1184年に京を制圧した頼朝方も「器量に堪えたる輩」を広範に招集・動員する。開発領主が多数「武士」となったのはこの段階であろう。髙橋昌明はそれをこう評した。 かくして、鎌倉武士は武官系武士や軍事貴族の否定的肯定であり、肯定的否定であった。新しい酒が古い革袋に盛られたのである。
※この「源平の争乱」の解説は、「武士団」の解説の一部です。
「源平の争乱」を含む「武士団」の記事については、「武士団」の概要を参照ください。
- 源平の争乱のページへのリンク