源平の争乱とは? わかりやすく解説

治承・寿永の乱

(源平の争乱 から転送)

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治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる国内各地の内乱であり、平清盛を中心とする伊勢平氏正盛流に対する反乱である。反平家勢力の中には祖を同じとする坂東平氏も含まれており遠戚間の対立、嫉妬に契機を発した抗争でもある。日宋貿易で得られた富を中央政府側で独占し、その財と権力で栄華を極め、傍若無人に振る舞った平家に他勢力が不満を募らせたことで反乱を招いた。このことから、平家の繁栄と没落を描いた叙述書、平家物語冒頭の「驕れる者も久しからず」という一文は「財や地位、権力を盾に威張る者は平家のようにいずれ滅びる」という意味の諺にもなっている[1]




「治承・寿永の乱」の続きの解説一覧

源平の争乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:45 UTC 版)

江戸氏」の記事における「源平の争乱」の解説

治承・寿永の乱源平合戦)において、江戸氏治承4年1180年)に源頼朝挙兵した時、武蔵国内で勢力拡大した秩父平氏有力な一角となっていた。江戸重継の子・重長は初め頼朝対立して衣笠城合戦畠山重忠河越重頼と共に頼朝方の三浦義明討って衣笠城落城させた。頼朝が再び安房から挙兵した際には、周辺豊島氏葛西氏頼朝にすぐ従ったが重長は畠山河越と共に従わず頼朝武蔵鎌倉に入る障害となった。 「吾妻鏡9月28日条によると、頼朝秩父一族切り崩し図って重長に使い送り、「畠山重能小山田有重在京している今、武蔵汝が棟梁である。もっとも頼りにしているので近辺武士達を率いて参上せよ」と伝えたとされる。「棟梁」と呼ぶことで重長を懐柔ようとしたとみられる。しかし重長が応じないため、29日条で既に頼朝に参陣していた秩父一族葛西清重大井要害へ重長を誘い出し討ち取るよう命じている。なお葛西清重追討せず、重長への説得続けたとみられる。 「吾妻鏡10月4日条に至り、重長は畠山重忠河越重頼と共に頼朝帰伏する。頼朝は「重長らは源家弓を引いた者であるが、このように勢力有る者を取り立てなければ目的成し遂げられないであろう憤懣残してならない」と当主江戸氏らに討たれ三浦一族言い聞かせ三浦氏異心抱かないとして、重忠らとお互いに目を合わせ納得して席に並んだという。江戸氏頼朝になかなか帰参しなかった理由として、この三浦氏との確執問題があったとみられ、頼朝配慮したとみられる翌日には、重長は頼朝から武蔵在庁官人や諸郡司統率して国の諸雑事沙汰する権限与えられた。このときに重長に秩父氏家督与えられとみられる。ただし、この権限秩父氏家督は後に河越重頼有しており、江戸氏には継承されなかった。重長はその後文治5年1189年)の奥州合戦にも従軍し奥州藤原氏討伐のため鎌倉出陣する頼朝従った。 なお「義経記」において「坂東八ヵ国の大福長者」と記された重長が舟橋作り頼朝軍勢渡河させたなどと、後世軍記物では重長は「吾妻鏡」に比べて大幅にその影響力が誇張されている。「大福長者」については、当時江戸氏然程強勢でなく先述の国の諸雑事沙汰する権限が姿を変えたとする意見や、実際に繁栄していた江戸氏の富の多さを示すとする意見もある。

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源平の争乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 05:47 UTC 版)

秩父氏」の記事における「源平の争乱」の解説

家督継いだ秩父重隆は、下野国藤姓足利氏上野国新田義重、その保護者同盟者である源義朝争っていた。また義朝結んだ甥の畠山重能とも家督巡って対立していた。重隆は源義賢娘婿迎えて対抗したが、両人1155年久寿2年)に源義平討たれた(武蔵国大蔵合戦)。 1156年保元元年)の保元の乱で、河越重頼源義朝の下で平家戦った。しかし1159年平治元年)の平治の乱源義朝敗死その後平家従った1180年治承4年)、源頼朝の挙兵後、秩父氏一族ははじめ平家方につき、畠山重忠河越重頼江戸重長衣笠城合戦三浦義明討ち取った源頼朝が再び安房から北上して武家政権打ち建てようとした時も、江戸重長らが下総頼朝軍を足止めしている。しかし、葛西清重奔走によって畠山重忠河越重頼江戸重長らは頼朝服属源氏方として平家戦い鎌倉幕府設立尽力した

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源平の争乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 02:10 UTC 版)

武士団」の記事における「源平の争乱」の解説

後の世粉飾入らない資料の中で、農村での武士団社会密度変化うかがえるもとして、『信貴山縁起絵巻』(しぎさんえんぎえまき)と、『粉河寺縁起絵巻』がある。 前者12世紀前半鳥羽上皇院政前期後者12世紀後半後白河院政の頃の作品とも言われる。それらの絵巻には、信貴山大和国粉河寺紀伊国、と畿内でも隣接した地方長者の家が描かれているが、前者には警護武者も、門の前の空堀も、門の上も無いのに対し後者ではそれらが描かれている。義江彰夫は同じ12世紀ながら、その初期後期との間に地方長者、すなわち開発領主武装武士団化)が進んだとしている。 『粉河寺縁起絵巻』は後白河法皇プロデュースとも言われるが、はっきりはぜず、その成立時期は、12世紀後半から13世紀初頭までと諸説ある。仮に後白河法皇承安版『後三年絵』と同時期の1171年承安元年前後としても、『信貴山縁起絵巻』から、『愚菅抄』において慈円が「日本国乱逆と云ふことはをこりて後、むさ(武者)の世になりける也」と書いた「保元の乱」、「平治の乱」を挿んで、更にその10年近くということになる。確かにこの間にも、在地社会での大きな変動があった。 また仮にもっとも遅い13世紀説が正しいとすれば、当然源平の争乱の後ということになる。その何十年かの間に、畿内領主一般像が、武装せぬ存在から、武士武具常備し屋敷守り固め鎌倉時代御家人地頭にも似た、あるいはその御家人の姿に変貌していったことを如実に物語っている。 2つ絵巻傍証にしか過ぎないが、武士団蔓延はいつから、という問いに対しては、ちょうど12世紀入ろうとする頃から、「保元の乱」、「平治の乱」を第一節目として、更に源平の争乱においてピーク達した見られている。二つの乱により、それまで京武者よりどころであった摂関家家政機構の中の武力解体し一方院北面平家一人勝ちにより機能停止する。そして平家は京の内裏警護為におそらくは国衙通じて諸国武士の在京勤務大番役始める。これは地方領主達にとって負担確かに大きいものの、一方でハレ」の場であり、中央の勢力とのコネクションを得る為にもと意気込み、それがまた「武士身分獲得ともなった。 そして、1180年源頼朝の挙兵以降平家高倉院の命として、公卿受領から「兵士」徴収、更に権門の諸荘園からも「兵士」徴収するまた、それを攻め木曾義仲軍は、由緒正し武士ばかりか東国武士は夫(人夫)までが弓箭にたづさいて候えば」と報告されるように、人夫までが弓箭携えて戦闘参加する。更に1184年に京を制圧した頼朝方も「器量堪えたる輩」を広範に招集動員する開発領主多数武士となったのはこの段であろう髙橋昌明はそれをこう評したかくして鎌倉武士武官武士軍事貴族否定的肯定であり、肯定的否定であった新しい酒が古い革袋盛られのである

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