かいはつ‐りょうしゅ〔‐リヤウシユ〕【開発領主】
開発領主
開発領主
開発領主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 02:10 UTC 版)
福田豊彦は「私営田領主」を「一口でいえば、広い土地を自分で直接経営する大土地所有者」とする。もちろん、「私営田領主」「私営田経営者」の説明がそれで済む訳ではないが、それに続く「開発領主」との対比においては、そのひとことが大きな特徴となる。安田元久らの学説では「武士」と「兵」の違いは「領地」の支配形態にもとめられた。つまり「武士」と呼べるのは、地方経済が「私営田経営」から「開発領主」の段階に移行してからだというのである。 福田豊彦によれば、後に鎌倉幕府の基盤となる「開発領主」は、「私営田経営(領主)」とは根本的に異なった所領経営の方法をとった。彼らは確かに、佃、手作(てづくり)、門田(かどた)などという直接耕作農地も持ってはいたが、大きな特徴は基本的には農業経営から離れ、農民から「加地子」を取る本格的な「領主」へと転化し始めることである。その時期は関東においては平忠常の乱が終わり、そこでの「亡国」といわれるほどの焦土戦による荒廃から、復興・再開発が始められた段階、つまり11世紀後半から12世紀初頭に相当する。 「開発領主」が生まれる過程は、その地の有力者が一族子弟のみならず、近隣の農民や諸国から流入した浮浪人などを組織して荒地の開拓を行い、その従事者を新しい村落に編成することに始まる。 そして、新しく開拓した地、そしてその村落は開拓した者の私領となる。私領といってもその地の課税が免除される訳ではないが、国衙は旧来の郡とは別の、新しい徴税単位として、特別な命令書により税を軽減し、開発領主の私領領有を認め、同時に開発領主がその地の納税義務を負うことになる。その特別な命令書(符)ということから、その地は「別符」と呼ばれ、また徴税単位として「郷」と呼ばれた。 別符による「郷」は、「郡」の下の「郷」ではなく、独立した徴税単位として「郡」と並列するものである。そうして律令制以来の郡・郷が、新しい郡・郷に再編されていく。 誰が開発領主となったのかと言えば、その領域そのものの法的所有、または国衙による開発の承認が重要なテコとなったため、自ら国衙の在庁官人となったか、あるいは国司と結びついた、留住から土着へと至った軍事貴族や前司の子弟など王臣子孫、そして一部の土豪だろう。信州から関東にかけての官牧、御牧の管理者、京の貴族の荘園の荘官として下向した者達がそこを基盤に周辺の開発を行うケースもあった。 ただし、地方の武士は、開発領主であることを経済的地盤としていたが、開発領主=武士であり、武士団を率いていた訳ではない。源平の争乱を生き抜き、少なくともその時期に武士となり、鎌倉時代に御家人、地頭となった者、一部の荘園の下司について以外に、後世に記録が残っていないことを考慮する必要がある。「国の兵共」が、「譜第図」や「胡簗注文」などの台帳に記載されるということ自体が、彼らが国衙支配下の開発領主達の中で特種な存在であったことを物語っている。
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