にっそう‐ぼうえき【日×宋貿易】
日宋貿易
日宋貿易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 17:03 UTC 版)
鴻臚館の衰退ののち、博多津では北宋や南宋の商人や住吉神社・筥崎宮など寺院神社や荘園領主らの私貿易による日宋貿易の拠点となった。1019年(寛仁3年)の刀伊の入寇や1151年(仁平元年)の大宰府追捕使による襲撃があったものの日宋貿易で栄え、近年の発掘調査から宋銭が博多でも流通していたことが判明している。 平安時代末期から、後世「大唐街」と呼ばれる宋国人街が筥崎宮周辺に形成された。異国風の建物が建ち並び、多数の外国人商人が行き交う国際都市であった。宋人は船団を組んで盛んに往来し、博多に居を構え、寺社とも結び付いた。このような宋商人は「綱首」(ごうしゅ、こうしゅ)と称される。1195年(建久6年)に帰朝した栄西が博多に聖福寺を開山したのも、博多綱首が心物両面で援助したからであった。1241年(仁治2年)に宋より帰朝した聖一国師円爾(弁円)の承天寺開山も博多綱首で小呂島地頭の謝国明が援助したことによる。この時期、宋により茶・饂飩・蕎麦・饅頭が日本にもたらされ、博多はこれらの発祥だという説がある。 平清盛は父忠盛の後を継いで伊勢の銀などを輸出品に宋との貿易を活発化させた。1158年(保元3年)に大宰大弐となった頃に清盛は博多に人工港「袖の湊」(そでのみなと)を開いて日宋貿易の中継地としたと考えられている。 博多どんたくの前身である博多松囃子は、清盛の子重盛が博多の町にもたらした恩恵への謝意を示したのがはじまりとされ、また博多祇園山笠は円爾が疫病の流行する博多の町を甘露水で清め回った1241年を起源としている。 ちなみに1222年(貞応元年)に人魚が博多の海に流れ着いたという記述があり、その骨とされるものが龍宮寺に所蔵されている。
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