袖の湊とは? わかりやすく解説

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そで‐の‐みなと【袖の×湊】

読み方:そでのみなと

ひどく泣いて袖がぬれるのを、絶えず波の打ち寄せる港にたとえた語。

「かげなれて宿る月かな人知れずよなよなさはぐ—に」〈続後撰・恋二〉


そでのみなと【袖湊】


袖の湊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 17:03 UTC 版)

博多」の記事における「袖の湊」の解説

中世博多津は、平安時代1161年平清盛により日本初人工港「袖の湊」が建設されたことにより始まる。住吉神社博多古図」によると、当時博多津大きく草香江」、「冷泉津」、聖福寺櫛田神社などがある博多中心部とそこから繋がれた「沖の浜と言う出島より分けられていた。当時比恵川(現在の御笠川石堂川)は西に流れ住吉神社北側で海に注いでおり、博多中心部それより北の部分にあった。 「冷泉津」は現代天神地区中心として東西中洲地区から赤坂地区周辺、南は住吉神社手前までに及び、この一帯当時全て海の底であった冷泉津と草香江当時平尾村中心とするやや小高い丘陵現在の南公園から西公園に至る地域)によって隔てられ、「草香江」もまた、現在の草香江六本松地区中心として、全て海の底であった平尾村丘陵北端からは東方沖の浜に向け細長い砂嘴伸びており、これを「長浜」と呼んだ。 「冷泉津」には南から那珂川、東には比恵川が注ぎ込んでおり、当時那珂川河口現在の塩原地区付近に浮き島として「箕島」(現在の美野島地区)があり、そのすぐ北に江を隔てて、「冷泉津」のほとりに住吉神社鎮座していた。筥崎八幡宮は、博多中心部から見て東北方向海岸沿いにあった現在の向野地区鎮座する石投げ地蔵当時「潮焦塚(塩煮塚)」と呼ばれていた。

※この「袖の湊」の解説は、「博多」の解説の一部です。
「袖の湊」を含む「博多」の記事については、「博多」の概要を参照ください。

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