源平合戦・鎌倉時代
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保元の乱・平治の乱後の1167年に大宰大弐に任じられた平頼盛は、大宰府に現地赴任し、九州北部の有力武士との結び付きを強めた。平氏は対外交易を重視しており、その一環として、大宰府直轄下にあった門司関も支配下に収めたと考えられる。しかし、平氏は、1185年(寿永4年)に屋島の戦いに敗れて追い詰められ、門司関に拠り、西下する源氏と対決することとした。平氏は、大里に安徳天皇の「柳の御所」を構えた。なお、「大里(だいり)」の地名は、内裏から来ている。この時、平知盛が家臣紀伊通資に命じ、古城山に山城を築かせたのが、門司城の始めであるとされる。源義経が平氏の彦島の陣地を攻め、源範頼が九州に上陸して門司の城を破ると、追い詰められた平氏は、壇ノ浦の戦いで敗れた。門司区内には、平氏の死者をとむらった数か所の平家供養塚や殿墓が残っている。 元暦二年三月二十四日の卯の刻に、豊前国田浦(たのうら)、門司関、長門国壇浦、赤間関にて、源平の矢合(やあはせ)とぞ定めける。[中略]然(さ)る程に源平両方陣を合す。陣の間(あはひ)海の面(おもて)僅に三十余町ぞ隔てたる。門司、赤間、壇浦はたぎつて落つる汐なれば平家の船は心ならず潮に向つて押落さる。源氏の船は自ら潮に追てぞ出で来る。 — 『平家物語』巻11「壇の浦合戦の事」 平氏が九州に持っていた所領は平家没官領として召し上げられ、その多くが鎌倉幕府に与えられた。門司関もその一つである。 1244年(寛元2年)、北条時頼の時代、門司氏の祖となる下総(藤原)親房(ちかふさ)が門司関に下向してきたと伝えられている。『門司氏系図』によれば、70余艘の兵船を率いてきたとされ、この水軍力によって関門海峡を守ったと考えられる。北条氏が地頭職を有する門司関領田の代官(地頭代)に補任されたものと考えられる。もっとも、親房は、菊池氏の妨害により、赤間関から門司に上陸することができず、任命されてから11年後の1255年(建長7年)にようやく上陸することができたとされる。当時、門司関は、楠原(くすばる)(門司港地区)、柳(大里地区)、大積、伊川、吉志(きし)、片野(小倉北区三萩野付近)の門司関6か郷に分かれていた。甲宗八幡神社は、もと門司関八幡宮といい、門司関6か郷の産土神として、門司氏の崇敬を受けた。門司6か郷には、下総氏が支配する門司関領田と、八幡宮領が混在していた。下総氏は、当初、本城である門司城のほかに、三角山城(楠原郷)、足立城(片野郷)、若王子城(柳郷)、寒竹城(吉志郷)、金山城(大積郷)の5支城を構えた。 下総氏は、鎌倉末期から南北朝時代にかけて土着化して門司(もんじ)氏を称するようになり、それぞれの所領ごとに片野系門司氏、吉志系門司氏などと呼ばれる。門司氏は、得宗被官として、得宗領となった門司関を支配した。また、鎌倉後期の1279年(弘安2年)頃、北条氏の一族北条実政(金沢実政)が豊前国守護であった時期に、企救郡が金沢氏の所領となったと考えられる。これは元寇という外圧を背景に北条氏が鎮西探題を設置するとともに九州の守護職を奪っていった一環であり、九州で北条氏以外の有力守護に残されたのは少弐氏の筑前国、大友氏の豊後国、島津氏の薩摩国だけとなった。
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