源平合戦・鎌倉時代とは? わかりやすく解説

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源平合戦・鎌倉時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 21:23 UTC 版)

門司の歴史」の記事における「源平合戦・鎌倉時代」の解説

保元の乱・平治の乱後の1167年大宰大弐任じられ平頼盛は、大宰府現地赴任し九州北部の有力武士との結び付き強めた平氏対外交易重視しており、その一環として大宰府直轄にあった門司関も支配下収めた考えられる。しかし、平氏は、1185年寿永4年)に屋島の戦い敗れて追い詰められ門司関に拠り西下する源氏対決することとした。平氏は、大里安徳天皇の「御所」を構えた。なお、「大里(だいり)」の地名は、内裏から来ている。この時、平知盛家臣紀伊通資に命じ古城山山城を築かせたのが、門司城始めであるとされる源義経平氏彦島陣地攻め源範頼九州上陸して門司の城を破ると、追い詰められ平氏は、壇ノ浦の戦い敗れた門司区内には、平氏死者をとむらった数か所の平家供養塚や殿墓が残っている。 元暦年三二十四日卯の刻に、豊前国田浦(たのうら)、門司関、長門国壇浦赤間関にて、源平矢合やあはせ)とぞ定めける。[中略]然(さ)る程に源平両方陣を合す。陣の間(あはひ)海の面(おもて)僅に三十余町ぞ隔てたる。門司赤間壇浦はたぎつて落つる汐なれば平家の船は心ならず潮に向つて押落さる。源氏の船は自ら潮に追てぞ出で来る。 — 『平家物語』11壇の浦合戦の事」 平氏九州持っていた所領平家没官領として召し上げられ、その多く鎌倉幕府与えられた。門司関もその一つである。 1244年寛元2年)、北条時頼時代門司氏の祖となる下総藤原)親房(ちかふさ)が門司関に下向してきたと伝えられている。『門司系図によれば70余艘の兵船率いてきたとされ、この水軍力によって関門海峡守った考えられる北条氏地頭職有する門司関領田の代官地頭代)に補任されたものと考えられる。もっとも、親房は、菊池氏妨害により、赤間関から門司上陸することができず、任命されてから11年後1255年建長7年)にようやく上陸することができたとされる当時門司関は、楠原(くすばる)(門司港地区)、大里地区)、大積伊川吉志(きし)、片野小倉北区三萩野付近)の門司関6か郷に分かれていた。甲宗八幡神社は、もと門司八幡宮といい、門司関6か郷の産土神として、門司氏の崇敬受けた門司6か郷には、下総氏が支配する門司関領田と、八幡宮領が混在していた。下総氏は、当初本城である門司城のほかに、三角山城(楠原郷)、足立城(片野郷)、若王子城(柳郷)、寒竹城(吉志郷)、金山城大積郷)の5支城構えた下総氏は、鎌倉末期から南北朝時代にかけて土着化して門司(もんじ)氏を称するようになり、それぞれの所領ごとに片野門司氏、吉志門司氏などと呼ばれる門司氏は、得宗被官として、得宗領となった門司関を支配したまた、鎌倉後期1279年弘安2年)頃、北条氏の一族北条実政金沢実政)が豊前国守護であった時期に、企救郡金沢氏所領となった考えられる。これは元寇という外圧背景北条氏鎮西探題設置するとともに九州守護職奪っていった一環であり、九州北条氏以外の有力守護残されたのは少弐氏筑前国大友氏豊後国島津氏薩摩国だけとなった

※この「源平合戦・鎌倉時代」の解説は、「門司の歴史」の解説の一部です。
「源平合戦・鎌倉時代」を含む「門司の歴史」の記事については、「門司の歴史」の概要を参照ください。

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