へいけ‐もっかんりょう〔‐モツクワンリヤウ〕【平家▽没官領】
平家没官領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/19 09:04 UTC 版)
平家没官領(へいけもっかんりょう)とは、平家が没落・滅亡した際に朝廷によって没官された所領のこと。その多くが後に源頼朝に与えられ、鎌倉幕府の関東御領の主要部分を構成した。
注釈
- ^ 安田「平家没官領」『国史大辞典』(1991)。ただし、没官領の出入の状況から数百か所にのぼる膨大な所領群であったことは確実である。
- ^ 九条兼実の日記『玉葉』寿永2年7月30日条に没官領の処分問題が議論に上ったことが記されており、平家追討の院宣の前後には没官が行われたとみられている。
- ^ 同年10月14日には寿永二年十月宣旨が出されて、頼朝に対し、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させるとともに、頼朝の東国支配権を公認した。
- ^ 平姓池氏の名字は、邸宅のあった六波羅池殿に由来する。
- ^ 頼盛の息子平保業は承久3年(1221年)、池大納言家領のうちの播磨国在田庄預所職に補任される(「朽木文書」・『鎌倉遺文』2813号)とともに、関東祗候を要請されている(「朽木文書」・『鎌倉遺文』2814号)。
- ^ 『吾妻鏡』文治3年(1187年)2月1日条には、頼朝が平家没官領の中から摂津国真井荘および島屋荘を、平清盛の娘で高倉天皇の中宮であった平徳子(建礼門院)に与えたという記事がある。
- ^ 例えば、『吾妻鏡』文治2年7月27日(1186年8月13日)条に記されている「没官京地目録」に記された平安京内の旧平家一門の宅地などがこれにあたる。さらに、西国の平家一門領やこれに味方した武士の所領の中には「平家没官領注文」作成以後に没官されて頼朝に与えられたものもあったと考えられている。
参照
- ^ 三田(1995)p.32。原出典は、川合康「鎌倉幕府荘郷地頭職の展開に関する一考察」『日本史研究272』(1985)ほか
- 1 平家没官領とは
- 2 平家没官領の概要
- 3 関連項目
平家没官領と同じ種類の言葉
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