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平徳子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/12/26 10:17 UTC 版)
平 徳子(たいら の とくこ/とくし/のりこ[1]、久寿2年(1155年) - 建保元年12月13日(1214年1月25日))は、高倉天皇の中宮。- ^ 名前の読みに関して、小説やドラマなどでは「とくこ」と読まれる場合が多いが、当時の人名が重箱読みされることはまずあり得ないため、無理がある(読みが分からない女性名を音読みする歴史学の慣習に従えば「とくし」であるが、当時本人がそう呼ばれた訳ではない)。女性の名前についての研究をまとめた「日本の女性名」(角田文衛著、教育社、1980年)では「のりこ」の読みを採用している。しかしながら、必ずしも角田説の「のりこ」の読みは一般的ではなく、小説のみならず中世史研究者の書籍でも依然「とくこ」(例:上杉和彦明治大学教授『戦争の日本史 6 源平の争乱』(吉川弘文館 2007年)、関幸彦鶴見大学教授『図説 合戦地図で読む源平争乱』(青春出版社、2004年)など)または「とくし」(奥富敬之早稲田大学講師「歴史群像シリーズ 平清盛」)と読みのルビが打たれている。
- ^ 『山槐記』治承2年6月28日条に、「御年廿四」とある。
- ^ 「徳子」という名は藤原永範がこの時に選んだものである。
- ^ 小督局の父・藤原成範は院近臣だったが治承三年の政変で処罰されず、後白河の幽閉された鳥羽殿への伺候も認められ清盛の信頼が厚かった。範子内親王は徳子の猶子となっている(『山槐記』治承2年6月17日条)。徳子は他にも後白河の第十一皇子・真禎を猶子とし(『山槐記』治承2年6月19日条)、後白河の第九皇子・道法法親王や高倉の第三皇女・潔子内親王についても身辺の世話をしていることが確認できる(『山槐記』治承3年4月16日条、4月23日条)。これらは徳子の養育という形で、平氏が高倉天皇の皇子女や後嗣と成り得る存在を監視下に置いたものと考えられる。
- ^ 右衛門尉・行高を東宮進物所預に任命(『山槐記』2月19日条)、譲位当日の東宮御所選定について指示(『山槐記』2月17日条)、藤原光長の五位蔵人補任(『山槐記』2月28日、29日条)など。もっとも徳子は自らの口出しは越権行為であり、本来は高倉上皇が行うべきものと控え目な態度を示している(『山槐記』2月17日条)。
- ^ 匈奴には父子が同じ女性と婚姻する「寡婦相続婚」「父子一妻婚」の風習があったが、漢民族は父子の別を重んじる儒教的見地からこの風習に激しい嫌悪感を抱いていた。九条兼実が「およそ言語の及ぶ所にあらざるものなり」と愕然としたのも、同じ価値観を持っていたためと考えられる。
- ^ 徳子の処遇について諮問を受けた九条兼実は、「武士に附けらるる事一切候ふべからず。古来女房の罪科聞かざる事なり。然るべき片山里辺に座せらるべきか」と返答している(『玉葉』4月21日条)。
- ^ 吉田の僧坊の主について、『平家物語』は慶恵、『吾妻鏡』4月28日条は実憲とする。
- ^ 『吉記』同日条によれば出家の戒師は大原の本成房湛ごう(へんが「學」、つくりが「攴」)だが、『平家物語』は長楽寺の阿証坊印西とする。守覚法親王が書いたとされる『左記』には安徳天皇の御直衣を持っている「長楽寺聖人」の記述があり、この所伝が『平家物語』に取り入れられたと考えられる。長楽寺はこの御直衣を幡(旗)にして現在でも伝えている。
- ^ 『平家物語』の壇ノ浦の場面では「浪の下にも都の候ぞ」となっている。
- ^ 『平家物語』の徳子と後白河法皇との問答は2500文字以上あるため、本文の会話文はその大意。
- ^ 角田文衛「建礼門院の後半生」『日本歴史』306、1973年。『王朝の明暗-平安時代史の研究 第2冊 』所収 東京堂出版、1977年。
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