たかくら‐てんのう〔‐テンワウ〕【高倉天皇】
高倉天皇
父後白河天皇の意志により、生後間もない1165年に親王宣下を受けた。
翌年の1166年になると6歳の幼年で立太子した。
その2年後の1168年にわずか8歳で六条天皇の譲位を受け即位し高倉天皇となった。
1172年、平清盛の意向により平清盛の娘徳子を中宮に迎え、徳子は言仁親王を生んだ。
(安徳天皇)そして言仁親王を皇太子に立てた。
1177年に「鹿ケ谷の陰謀」が起き、父後白河法皇と平清盛との対立が決定的になり、1179年(治承三年)に平清盛と対立して父後白河法皇は鳥羽殿に幽閉されるクーデターが起きた。
高倉天皇は、その翌年平清盛の強訴により安徳天皇に譲位した。
1181年21歳の若さで没した。
高倉天皇は、平氏の皇位継承の道具とされたが、その平氏にもやがて暗雲が漂いはじめることになる。
栄枯盛衰は世の常、因果は必ず巡ってくる。
第80代天皇 | |
天皇名 | 高倉天皇 |
読み方 | たかくらてんのう |
名・諱等 | 憲仁親王 |
読み方 | のりひとしんのう |
時代区分 | 古代 |
天皇在位 | 1168年から1180年 |
生年 | 1161 |
没年 | 1181 |
父 | 後白河天皇 |
母 | 平慈子 |
兄弟 | 守仁親王・以仁王 |
配偶者 | 平徳子・坊門殖子 |
皇子女 | 言仁親王・尊成親王 |
即位宮 | 平安京 |
天皇陵 | 後清閑寺陵 |
所在地 | 京都市東山区清閑寺歌ノ |
高倉天皇 後清閑寺陵
(たかくらてんのう のちのせいかんじのみささぎ)
高倉天皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/01 05:40 UTC 版)
高倉天皇(たかくらてんのう、1161年9月23日〈応保元年9月3日〉- 1181年1月30日〈治承5年1月14日〉)は、第80代天皇(在位: 1168年3月30日〈仁安3年2月19日〉- 1180年3月18日〈治承4年2月21日〉)。諱は憲仁(のりひと)。
注釈
- ^ これに対して、母・建春門院が崩御した直後のことで、高倉天皇の同母弟が生まれる可能性が無くなったのを受けて治天の君である後白河院が皇位継承の安定化のために図ったもので、譲位させる意図はなかったとする説もある。これは高倉天皇に安徳天皇ら皇子が次々に誕生すると異母弟たちの出家が行われていることや後に平家一門が安徳天皇を連れて西国に落ち延びた際も後白河院が高倉天皇の血筋以外への皇位継承を否認しているからも証明できるとしている。ただし、この説においても当時16歳であった高倉天皇や平家一門がこの判断をどう受け取るかは別問題であるとしている[2]。
- ^ 高倉天皇も父である後白河院を警戒して母・建春門院から継承した所領を自己のものとし、崩御の際には中宮であった徳子に継承させようとしている[3]。
出典
- ^ 海野泰男『今鏡全釈』 上巻、367-368頁。
- ^ 松薗斉『中世の王家と宮家』臨川書店〈王朝時代の実像15〉、2023年、28-30頁。ISBN 978-4-653-04715-5。
- ^ 佐伯智広「高倉皇統の所領伝領」『日本史研究』549号、2008年。/所収:佐伯智広『中世前期の政治構造と王家』、東京大学出版会、2015年。ISBN 978-4-13-026238-5。
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