京都扶持衆
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京都扶持衆(きょうとふちしゅう)とは、室町時代に室町幕府の征夷大将軍と直接主従関係を結んだ関東地方・東北地方の武士。京都御扶持衆ともいう。
- ^ 『関東中心足利時代之研究』(雄山閣、1926年)
- ^ 『満済准后日記』応永30年7月5日条
- ^ 『兼宣公記』応永30年8月17日条
- ^ a b 渡政和「〈京都様〉の〈御扶持〉について -いわゆる〈京都扶持衆〉についての考察-」(初出:『武蔵大学日本文化研究』第5号(1986年)/所収:植田真平 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二〇巻 足利持氏』(戒光祥出版、2016年)ISBN 978-4-86403-198-1)
- ^ ただし、京都扶持衆と呼ばれる武家でも実際には鎌倉府に出仕していた事例は多い。宇都宮満綱は鎌倉で病死し、山入与義・大掾満幹が鎌倉府への反抗を理由に討たれたのは鎌倉においてであった(江田郁夫『室町幕府東国支配の研究』(高志書店、2008年)第Ⅱ編第二章「鎌倉府体制下の在鎌倉制について」)。
- ^ 『伊勢加賀守貞満筆記』
- ^ 千葉兼胤、小栗満重、岩松満純、那須資之、武田信満、山入与義、小田持家、大掾満幹、相模の曽我・中村・土肥・土屋氏(土屋氏遠・景遠父子)、伊豆狩野氏、白河結城満朝らのほか、叔父の足利満隆・篠川御所足利満直、満隆の養子である異母弟の足利持仲までもが禅秀方に加担している。また、宇都宮持綱は持氏方であったが、京都の義持の統制下で行動していた。
- ^ 満重の乱の前後(一部上杉禅秀の乱も含む)には、山入与義、大掾満幹、岩松満純、那須資之、小田持家、武田信満、榛谷重氏(榛谷氏)、佐々木基清(佐々木氏)なども討伐を受けた。
- 1 京都扶持衆とは
- 2 京都扶持衆の概要
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