足利頼氏とは? わかりやすく解説

足利頼氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/21 02:10 UTC 版)

足利 頼氏(あしかが よりうじ)は、鎌倉時代中期の武将鎌倉幕府御家人足利宗家5代当主。父は足利泰氏。母は北条時氏の娘[典拠 1]。初名は足利利氏(としうじ)。室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏の曾祖父。


注釈

  1. ^ 没年月日および享年からの逆算による。
  2. ^ a b ちなみに、『吾妻鏡人名索引』では「三郎家氏」を"利氏の誤りならむ"としているが、建長4年の段階になっていきなり「三郎」の(実名)が変化し、別に全く同じ名を持つ「大郎家氏」が現れるのは不自然であるとしている[9]
  3. ^ 系図纂要』には、曽祖父・義兼、祖父・義氏、父・泰氏が代々「三郎」を称していたことが記されている。この頃の足利氏の歴代当主は、代々北条氏一門の女性を正室に迎え、その間に生まれた子が嫡子となり、たとえその子より年長の子(兄)が何人あっても、彼らは皆庶子として扱われ家を継ぐことができないという決まりがあり[10]、子の家時や曾孫の高氏(尊氏)も母の実家が北条氏ではなく上杉氏であって本来は家督継承者ではなかったため、「太郎」を称していた。
  4. ^ 一般的な元服の年齢については元服とは”. コトバンク. 2020年3月5日閲覧。等を参照のこと。
  5. ^ 改名の時期については治部権大輔となった後の正元2年(1260年)とする見解もあり、臼井論文[18]をはじめ、小谷論文[6]のほか、田中大喜作の「下野足利氏関係年表」でもこの説が採用されているが、いずれもその史料的根拠に欠けており、また『経俊卿記』正元元年(1259年4月17日条に出てくる「源頼氏」が足利頼氏とみられる(本文参照)ことからも誤りと思われる。よって、北条時利の加冠を務めた後まもなく改名したとする[16]が妥当である。
  6. ^ また、その後文永5年(1268年)2月26日に7代執権・北条政村と連署・北条時宗が深堀時光宛てに出した「関東御教書」(「深掘記録証文」、『鎌倉遺文』第13巻 p.332 9864号)にも「京都大番事、自明正月一日至同六月晦日、寄合頭人足利入道跡、可令勤仕之状、依仰執達如件、」という同様の文言が見られる。尚、文中の「足利入道跡」は「足利義氏の後継者」の意と考えられ、その該当者については、泰氏入道とする説[21]家時とする説[22]家氏入道蓮阿とする説[23]と様々にあるが、家氏とする小川説が妥当とされる[24]
  7. ^ この3名が従五位下となったこと、およびその時期については、細川重男の「鎌倉政権上級職員表」[25]に詳しく、以下の通りである。
    *No.35 北条(塩田)義政:正元元年4月17日、左近将監[典拠 7]
    *No.40 北条(普音寺)業時:正元元年4月17日、弾正少弼[典拠 8]
    *No.165 二階堂行氏:正嘉2年(1258年)1月13日、蒙使宣旨・左衛門尉。正元元年4月17日、叙留[典拠 9]
    いずれも叙任または叙留されたのは正元元年4月17日であり、『経俊卿記』同日条の記載に合致する[26]
  8. ^ 子の家時は7代将軍・源惟康(惟康親王)の近臣筆頭として北条時宗政権への協力姿勢を示すことで得宗から厚遇され、時宗の死後はそれに殉ずる形で自殺を遂げており[29]、孫の貞氏も北条氏が擁立した将軍に伺候する立場を遵守し、また得宗に従う姿勢を示したことによって、北条貞時から「源氏嫡流」の公認を受け、得宗に次ぐ家格を維持することに成功したとされる[30]
  9. ^ 足利市にある吉祥寺は頼氏の開基した寺である。
  10. ^ これについても諸説伝わるが、弘安7年(1284年6月25日とする説が有力である。詳しくは足利家時の項を参照。
  11. ^ 『鎌倉・室町人名事典』でこの説を採用している[2]
  12. ^ 前田治幸も同様の見解を示している[42]

史料的典拠

  1. ^ a b c d 『吾妻鏡』宝治元年3月2日条。
     寳治元年三月大二日乙卯。今曉寅刻。足利宮内少輔泰氏室卒去是左親衛妹公也云々。今日可摺寫不動并慈慧大師像之由。被仰政所之間。有其沙汰云々。
    この記事から、左親衛(=北条時頼)の妹が足利泰氏室となっていたことが窺える。『尊卑分脈』の北条氏系図上で、北条時氏從五下修理亮)の娘(=時頼の妹)の項に「源頼氏母」と明記されており(『尊卑分脈』〈国史大系本〉第4篇 p.18)、足利氏系図でも足利頼氏の傍注に「母修理亮平時氏女」との記載が見られる(『尊卑分脈』〈国史大系本〉第3篇 p.251)。従って、この女性は泰氏の妻となって頼氏を生んだ、頼氏の母であったことが明らかである。『吾妻鏡』の記事に従えば、この女性は兄の時頼が生まれた安貞元年(1227年)以後、父の時氏が寛喜2年(1230年)に28歳で亡くなるよりも前に生まれたことになり、仮に時頼と同年の生まれだとしても数え年14歳で頼氏を生んだということになる[5][6]
  2. ^ 米沢市中条敦所蔵「桓武平氏諸流系図」(『奥山庄史料集』)、「入来院家所蔵平氏系図」[7]。詳細は本文参照。
  3. ^ a b 『尊卑分脈』の足利氏系図上で頼氏の子・家時の傍注に「母家女房上杉蔵人重房女」とあり(『尊卑分脈』〈国史大系本〉第3篇 p.251)、上杉氏の系図上でも重房の女子に「足利伊与守源家時母」と注記している(『尊卑分脈』〈国史大系本〉第2篇 p.133)。
  4. ^ a b c d 『吾妻鏡』弘長元年(1261年)1月1日条に「治部権大輔頼氏」と見え、『吾妻鏡人名索引』や吉井論文[17]では、時期の近い正元2年/文応元年(1260年)2月20日「治部権大輔」、弘長元年1月7日「治部権大輔」、弘長元年7月29日「治部大輔」を「治部権大輔頼氏」と同一人物として扱っている。尚、「治部大輔」は治部大輔の権官、すなわち大宝養老令に定められた定員以外に仮に任ぜられた治部大輔のことであり、正官になると「治部大輔」となる。『瀧山寺縁起』「温室番帳」の頼氏卒去の記事にも「治部大輔源頼氏」(本文参照)と記されていることから、弘長元年の1月7日から7月29日の間に「治部権大輔」から「治部大輔」になったと考えられる。
  5. ^ a b 「深掘記録証文」(正嘉3年2月20日付「関東御教書」、『鎌倉遺文』第11巻 p.337 8349号)。
  6. ^ 『経俊卿記』〈図書寮叢刊〉(宮内庁書陵部、1970年)p.400。
  7. ^ 『鎌倉年代記』文永10年条、『関東評定衆伝』建治3年条
  8. ^ 『鎌倉年代記』弘安6年条、『武家年代記』弘安6年条
  9. ^ いずれも『関東評定衆伝』弘長3年条に拠る。
  10. ^ 『吾妻鏡』寛元2年8月15日条。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j 足利頼氏」『日本人名大辞典』講談社https://kotobank.jp/word/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E9%A0%BC%E6%B0%8F-1049860 
  2. ^ a b c d e f g h i j 安田 1990, p. 36, 福田豊彦「足利頼氏」
  3. ^ a b c 前田 2013, p. 187
  4. ^ a b 奥富 2008, pp. 92–111.
  5. ^ a b c 臼井 2013, p. 64.
  6. ^ a b c d e 小谷 2013a, p. 119.
  7. ^ 山口 2002, p. 22.
  8. ^ 小谷 2013b, p. 138.
  9. ^ a b c d e 紺戸 1979, p. 13.
  10. ^ a b c 臼井 2013, p. 67.
  11. ^ 『吾妻鏡人名索引』
  12. ^ a b 山野 2012, p.181 脚注(12)
  13. ^ 紺戸 1979.
  14. ^ 吉井 2013, p. 163.
  15. ^ 紺戸 1979, p.12系図.
  16. ^ a b 小川 1980, p. 364.
  17. ^ a b c 吉井 2013, p. 165.
  18. ^ a b 臼井 2013, p. 63.
  19. ^ 田中 2013.
  20. ^ a b 臼井 2013, pp. 63–64.
  21. ^ 臼井 2013, p. 65.
  22. ^ 小谷俊彦「源姓足利氏の発展」『近代足利市史1通史編』1977年。 
  23. ^ 小川 1980, pp. 365–366.
  24. ^ 吉井 2013, p. 162.
  25. ^ 細川 2000, 巻末.
  26. ^ a b c d e 前田 2013, p. 210.
  27. ^ 前田 2013, pp. 187–188.
  28. ^ 高橋慎一朗『北条時頼』吉川弘文館〈人物叢書〉、2013年、168-169頁。 
  29. ^ 田中 2013, p. 23, 「中世前期下野足利氏論」.
  30. ^ 田中 2013, pp. 25–26, 「中世前期下野足利氏論」.
  31. ^ 人物の比定は『吾妻鏡人名索引』による。
  32. ^ 『足利市史』
  33. ^ a b 新行 2013, p. 286.
  34. ^ a b 田中 2013, p. 401, 「下野足利氏関係史料」.
  35. ^ a b 『新編岡崎市史 史料 古代・中世』
  36. ^ a b 奥宮正明 編「足利・今川系図」『蠧簡集残編 六』。 東京大学史料編纂所架蔵謄写本)
  37. ^ a b c 田中 2013, p. 385, 「下野足利氏関係史料」.
  38. ^ 臼井 2013, pp. 63–66.
  39. ^ 細川涼一「叡尊の鎌倉下向と鎌倉幕府の女性」『戒律文化』7号、2009年。 
  40. ^ a b 前田 2013, p. 211.
  41. ^ 吉井 2013, pp. 165–166.
  42. ^ 前田 2013, p. 188.
  43. ^ 『奥山庄史料集』
  44. ^ 小谷 2013a, p. 120。また、小谷論文の後に翻刻が発表された「入来院家所蔵平氏系図」でも、時盛の娘の一人に「足利治部大輔妻」と注記しており(山口 2002, p. 22)、この説を裏付けるものとなる。
  45. ^ 小谷 2013a, p. 120.
  46. ^ 吉井 2013, p. 166-167。足利氏嫡流では、正室所生の嫡男が幼少であっても庶系には家督を譲らず、庶兄・庶伯父などが直系嫡男が家督相続するまでの家政の代行を担ったり援助していた(清水 2008, pp. 125–142)。
  47. ^ 田中 2013, 巻末「下野足利氏関係年表」.
  48. ^ 武家家伝_山内上杉氏 より。
  49. ^ 田中 2013, pp. 19・33-35・43, 「中世前期下野足利氏論」が示す、新田氏歴代当主が足利氏より「氏」の字を賜っていたとする説より。


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