晩年に関する研究史
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弘長元年七月大廿九日己丑。武藏前司。筑前入道行善。常陸入道行日等。放生會之時可參候于廻廊之由。可相觸之旨。被仰下云々。随兵之中。在國輩四人辞退請文。昨日自小侍所。付武藤少卿景頼之間。今日披露。此外條々有其沙汰云々。 (中略) 在鎌倉人々中申障 尾張前司 越前々司 治部大輔 周防守 上総前司 佐渡五郎左衛門尉 周防三郎左衛門尉 宇都宮五郎左衛門尉 出羽三郎左衛門尉 以上勞之由申 (以下省略) (『吾妻鏡』より) 頼氏は弓矢に優れ、鶴岡八幡宮での流鏑馬などで活躍していたが、生来から病弱だったために、弘長元年(1261年)7月29日、頼氏を指すと思われる「治部大輔」が翌月15日の鶴岡八幡宮での行事(放生会)を病気で辞退したという上の記述を最後に史料から姿を消した。その後の頼氏は、没年にも異説が多く、弘長2年(1262年)説、弘安3年(1280年)説、永仁5年(1297年)説がある。詳しくは以下の通りである。 弘長2年(1262年)死亡説 足利吉祥寺の位牌:4月24日に死去。 『瀧山寺縁起』「温室番帳」:4月24日に死去。 『蠧簡集残編 六』所収「足利系図」:4月24日に死去 弘安3年(1280年)死亡説 『尊卑分脈』・『系図纂要』:4月2日に出家、4月7日に23歳で死去。 『続群書類従』所収「足利系図」:4月7日に33歳で死去。 永仁5年(1297年)死亡説 鑁阿寺の位牌:6月9日に40歳で死去。 「新田足利両家系図」:6月9日に40歳で死去。 臼井信義によれば、文永6年(1269年)4月に子の家時が鑁阿寺に与えた定文条々(寺規七ヶ条)があることから家時がこの段階で足利氏の当主であったとみられること、1280年説または1297年説で享年を23または33または40とした場合に、頼氏の生母が宝治元年(1247年)に死去していることと矛盾すること、建長4年(1252年)の段階で頼氏(利氏)が幕府に出仕していることが窺える『吾妻鏡』の記述(前述参照)に矛盾することや、子である家時の没年との関係から、1262年説が有力であり、鶴岡八幡宮放生会への供奉を辞退したという上の記事がこの説を裏付けるものであるとしている。またこの臼井説が出された後に次の史料が発見された。 四月…(中略)…同廿四日治部大輔源頼氏弘長二年壬戌御逝去、此時為一切経会料所被寄進阿知波郷了、 (『瀧山寺縁起』「温室番帳」より) この『瀧山寺縁起』は他の記載も含めて信憑性の高いものとされ、この記述を根拠に臼井の弘長2年(1262年)死亡説を支持する見解も出された。そのうち、前田治幸は更に『蠧簡集残編 六』所収の「足利系図」にも頼氏の項に「弘長二年四月廿四日卒」とあることを根拠に、臼井の説を補強された。 尚、異説として『関東往還記』弘長2年6月19日条に「足利左馬入道」が西大寺叡尊のもとに参っている記事が見られ、「足利左馬入道」を左馬頭(『尊卑分脉』や『系図纂要』では左馬助)の官途名を持った頼氏として同年4月24日死亡説を否定する説も出された。これについては、前述の通り弘長2年死亡説を支持する前田が、東京大学史料編纂所所蔵の写真帳で同箇所を確認してみると「畠山入道足利左馬入道 参、」とあり、畠山泰国とみられる「畠山入道」の割注であることが分かり、また頼氏が「左馬頭」もしくは「左馬助」であった形跡が確認できないことから、「足利左馬入道」は泰国の叔父である足利義氏(左馬頭、頼氏の祖父)を指し、本来は「足利左馬入道甥」とあったものが伝写される際に誤って消えてしまったものとする見解を示している。また、前田は『尊卑分脉』以下の系図類に注記される「三河守」についても、世良田頼氏と混同している可能性があるとして否定的な見解を示している。 以上のことにより、1262年死亡説が有力とされる。命日については弘長2年(1262年)に死亡とする上記3つの史料が掲げる4月24日、享年については生母との関係から判断して『尊卑分脈』に掲載の23が正しいとされ、逆算すると仁治元年(1240年)生まれということになる。前述したが、建長3年(1251年)に元服したとみられることも生誕年を推定する根拠となる。誕生の時点では、両親の祖父にあたる北条泰時は存命している。
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