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あしかが-たかうじ ―たかうぢ 【足利尊氏】

(1305-1358) 室町幕府初代将軍在職 1338-1358)。初名高氏元弘の乱建武の中興きっかけをつくる働きをし、後醍醐天皇の諱(いみな)尊治の一字賜り改名。のち天皇にそむき、1336年光明天皇擁立し、室町幕府を開いて南朝対立した。夢窓疎石帰依し、天竜寺などを建立


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足利尊氏 (あしかがたかうじ)

室町幕府最初将軍です。鎌倉幕府をほろぼした後、後醍醐[ごだいご]天皇対立して兵を挙げます。一度負けますが、後醍醐[ごだいご]天皇吉野[よしの]へ追いやり、南北朝なんぼくちょう時代になります。

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足利尊氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/28 17:03 UTC 版)

足利尊氏
Ashikaga Takauji Jōdo-ji.jpg
浄土寺所蔵の伝足利尊氏像
時代 鎌倉時代末期 - 室町時代初期
生誕 嘉元3年(1305年8月18日
死没 延文3年4月30日/正平13年(1358年6月7日)
改名 又太郎(幼名)、高氏→尊氏
戒名 等持院殿仁山妙義大居士長寿寺殿
墓所 京都府京都市北区萬年山等持院
神奈川県鎌倉市寶亀山長寿寺
官位 従五位上鎮守府将軍従四位下左兵衛督従三位武蔵守正三位参議征東将軍従二位権大納言征夷大将軍正二位従一位左大臣太政大臣
幕府 室町幕府 初代征夷大将軍
(在任:1338年 - 1358年
氏族 足利氏足利将軍家
父母 足利貞氏上杉清子
兄弟 高義尊氏直義
正室:赤橋登子
側室:加古基氏の娘、越前局、ほか
竹若、直冬義詮基氏鶴王

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代武将室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。

目次

概要

足利貞氏の次男として生まれる。はじめ得宗北条高時の偏諱を受け高氏と名乗った。元弘3年(1333年)に後醍醐天皇が伯耆船上山で挙兵した際、その鎮圧のため幕府軍を率いて上洛したが、丹波国篠村八幡宮で幕府への叛乱を宣言、六波羅探題を滅ぼした。幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の偏諱を受け、名を尊氏に改める。

後醍醐の独裁体制である建武の新政が急速に人心を失っていく中、中先代の乱により窮地に陥った弟・足利直義救援のため東下し、乱を鎮圧したあとは、そのまま鎌倉に留まり独自の政権を樹立する構えを見せた。これにより天皇との関係が悪化し、上洛して一時は天皇を比叡山へ追いやった。天皇側の反攻によりいったんは九州に没落、再び太宰府天満宮を拠点に上洛して京都を制圧、光明天皇を擁立して征夷大将軍補任され新たな武家政権室町幕府)を開いた。後醍醐天皇はいったんは捕虜となったものの吉野に逃亡し南朝を創始することになった。

幕府を開いてのち弟・足利直義と二頭政治を布いたが、後に対立し観応の擾乱を引き起こす。直義の死により乱は終息したが、その後も南朝など反対勢力の打倒に奔走し、統治の安定に努めた。後醍醐天皇の崩御後はその菩提を弔うため天竜寺を建立している。新千載和歌集は尊氏の執奏により後光厳天皇が撰進を命じたものであり、以後の勅撰和歌集は、二十一代集の最後の新続古今和歌集まですべて将軍の執奏によることとなった。

天皇に叛旗を翻したことから皇国史観のもとで「逆賊」と位置づけられていた時代(明治時代中期~昭和時代前期)もあった一方、戦後(昭和時代中期~平成時代以降)は一転して肯定的に再評価されているように、歴史観の変遷によってその人物像が、甚だしく激しく大きく変化している。

生涯

誕生から鎌倉幕府滅亡まで

尊氏は嘉元3年(1305年)7月27日に鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の次男として生まれた。母は貞氏側室の上杉氏(兄に貞氏正室の北条顕時が産んだ足利高義がいる)。生誕地は上杉氏の本貫地である綾部説(漢部とも。京都府綾部市上杉荘)、鎌倉説、足利荘説(栃木県足利市)の3説がある。ただしこの中では、上杉庄説が最も有力である。後世に編纂された『難太平記』では尊氏が出生して産湯につかった際、2羽の山鳩が飛んできて1羽は尊氏の肩に止まり、1羽は柄杓に止まったという伝説を伝えている。幼名は又太郎。元応元年(1319年)10月10日、15歳のとき元服し従五位下に叙し治部大輔に任ずるとともに、得宗・北条高時の偏諱を賜り高氏と名乗った。そして執権北条守時の妹赤橋登子を正室に迎える。『難太平記』は、尊氏と同じく足利頼氏側室の上杉氏が産んだ祖父・家時が、自分の寿命を縮めることと引き替えに、子孫3代のうちに足利家が天下を取ることを祈願して自刃したと伝えている。

元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が2度目の倒幕を企図し、笠置で挙兵した(元弘の乱)。鎌倉幕府は高氏に派兵を命じ、高氏は天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加する。このとき、父貞氏の喪中であることを理由に出兵動員を辞退したが許されなかった。『太平記』は、このことから高氏が幕府に反感を持つようになったとする。元弘の乱は結局失敗に終わり、倒幕計画に関わった貴族・僧侶が多数逮捕され、死刑・配流などの厳罰に処された。後醍醐天皇も廃位され、代わって持明院統光厳天皇が践祚した。翌年3月には後醍醐天皇は隠岐島に配流された。

正慶2年/元弘3年(1333年)後醍醐天皇は隠岐を脱出して伯耆国船上山に籠城した。高氏は再び幕命を受け、西国の討幕勢力を鎮圧するために名越高家とともに司令官として上洛した。このとき、高氏は妻登子・嫡男千寿王(のちの義詮)を同行しようとしたが、幕府は人質としてふたりを鎌倉に残留させている。高家が緒戦で戦死したことを踏まえ、後醍醐天皇の誘いを受けていた高氏は天皇方につくことを決意し、4月29日、所領の丹波国篠村八幡宮(京都府亀岡市)で反幕府の兵を挙げた。諸国に多数の軍勢催促状を発し、播磨国赤松円心近江国佐々木導誉らの反幕府勢力を糾合して入洛し、5月7日に六波羅探題を滅亡させた。関東では、同時期に上野国の御家人である新田義貞を中心とした叛乱が起こり、鎌倉を制圧して幕府を滅亡に追い込んだ。この軍勢には、鎌倉からの脱出に成功した千寿王も参加している。一方で、高氏の庶長子・竹若丸は伯父に連れ出され、鎌倉を出たが、脱出に失敗して途中で北条の手の物に捕まり殺害されている。

建武の新政から南北朝動乱へ

鎌倉幕府の滅亡後、高氏は後醍醐天皇から勲功第一とされ、従四位下に叙し、鎮守府将軍左兵衛督に任じ、また30箇所の所領を与えられた。さらに天皇の諱「尊治」から偏諱を受け尊氏と改名した。尊氏は建武政権では自らは要職には就かなかった一方、足利家の執事である高師直、その弟・師泰をはじめとする家臣を多数政権に送り込んでいる。これには、天皇が尊氏を敬遠したとする見方と、尊氏自身が政権と距離を置いたとする見方とがある。世人はこれを「尊氏なし」と称した。

元弘3年(1333年)、義良親王(のちの後村上天皇)が陸奥太守に、北畠顕家鎮守府大将軍に任じられて陸奥国に駐屯することになると、尊氏も、成良親王を上野太守に擁立して直義とともに鎌倉に駐屯させている。また、鎌倉幕府滅亡に大きな戦功をあげながら父に疎まれ不遇であった護良親王は、尊氏をも敵視し政権の不安定要因となっていたが、建武元年(1334年)には父の命令で逮捕され、鎌倉の直義に預けられて幽閉の身となった。

建武2年(1335年信濃国で北条高時の遺児北条時行を擁立した北条氏残党の反乱である中先代の乱が起こり、時行の軍勢は鎌倉を一時占拠する。直義は鎌倉を脱出する際に独断で護良を殺害している。尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の官職を望んだが許されず、8月2日、天皇の許可を得ないまま軍勢を率いて鎌倉に向かった。天皇はやむなく征東将軍の号を与えた。尊氏は直義の軍勢と合流し相模川の戦いで時行を駆逐して、8月19日には鎌倉を回復した。

直義の意向もあって尊氏はそのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与えはじめ、京都からの上洛の命令も拒んで、独自の武家政権創始の動きを見せはじめた。11月、尊氏は新田義貞を君側の奸であるとして天皇にその討伐を要請するが、天皇は逆に義貞に尊良親王をともなわせて尊氏討伐を命じた。さらに奥州からは北畠顕家も南下を始めており、尊氏は赦免を求めて隠居を宣言し寺にひきこもり断髪する[1]が、直義・師直などの足利方が各地で劣勢となると、尊氏は彼らを救うため天皇に叛旗を翻すことを決意し「直義が死ねば自分が生きていても無益である」と宣言し出馬する。12月、尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り、京都へ進軍を始めた。この間、尊氏は持明院統の光厳上皇と連絡を取り、叛乱の正統性を得る工作をしている。建武3年(1336年)正月、尊氏は入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山へ退いた。しかしほどなくして奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢に晒される。1月30日の戦いで敗れた尊氏は篠村八幡宮に撤退して京都奪還を図る。この時の尊氏が京都周辺に止まって反撃の機会を狙っていたことは、九州の大友近江次郎に出兵と上洛を命じた尊氏の花押入りの2月4日付軍勢催促状(「筑後大友文書」)から推測できる。だが、2月11日に摂津豊島河原の戦いで新田軍に大敗を喫したために戦略は崩壊する。尊氏は摂津兵庫から播磨室津に退き、赤松円心の進言を容れて京都を放棄して九州に下った。

九州への西下途上、長門国赤間関(山口県下関市)で少弐頼尚に迎えられ、筑前国宗像大社の宗像氏範の支援を受ける。宗像大社参拝後の3月初旬、筑前多々良浜の戦いにおいて天皇方の菊池武敏らを破り、大友貞順(近江次郎)ら天皇方勢力を圧倒して勢力を立て直した尊氏は、京に向かう途中ので光厳上皇の院宣を獲得し、西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上した。5月25日の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り、6月には京都を再び制圧した(延元の乱)。

尊氏は洛中をほぼ制圧したが、このころ再び遁世願望が頭を擡げ8月17日に「この世は夢であるから遁世したい。信心を私にください。今生の果報は総て直義に賜り直義が安寧に過ごせることを願う」という趣旨の願文を清水寺に納めている[2]。足利の勢力は、比叡山に逃れていた天皇の顔を立てる形での和議を申し入れた。和議に応じた後醍醐天皇は11月2日に光厳上皇の弟光明天皇に神器を譲り、その直後の11月7日、建武式目十七条を定めて政権の基本方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言したがこれには直義の意向が強いとされる。実質的には、このときをもって室町幕府の発足とする。尊氏は源頼朝と同じ権大納言に任じられ、自らを「鎌倉殿」と称した。一方、後醍醐天皇は12月に京を脱出して吉野(奈良県吉野郡吉野町)へ逃れ、光明に譲った三種の神器は偽物であり自らが帯同したものが本物であると称して独自の朝廷(南朝)を樹立した。

観応の擾乱から晩年まで

尊氏の墓(等持院
足利尊氏邸跡・京都市中京区高倉通御池上ル東側

暦応元年/延元3年(1338年)、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が名実ともに成立した。翌年、後醍醐天皇が吉野で崩御すると、尊氏は慰霊のために天龍寺造営を開始した。造営費を支弁するため、天龍寺船が派遣されている。南朝との戦いは基本的に足利方が優位に戦いを進め、北畠顕家、新田義貞、楠木正成の遺児正行などが次々に戦死しているほか、貞和4年/正平3年(1348年)には吉野を攻め落として全山を焼き払うなどの戦果をあげている。

新政権において、尊氏は政務を直義に任せ軍事は高師直に任せ、自らは武士の棟梁として君臨し事実上の隠居状態に入った。佐藤進一はこの状態を、主従制的支配権を握る尊氏と統治権的支配権を所管する直義との両頭政治であり、鎌倉幕府以来、将軍が有していた権力の二元性が具現したものと評価した(「室町幕府論」『岩波講座日本歴史7』岩波書店、1963年)。しかし、二元化した権力は徐々に幕府内部の対立を呼び起こし、高師直らの反直義派と直義派の対立として現れていく。この対立はついに観応の擾乱と呼ばれる内部抗争に発展した。尊氏は当初、中立的立場を取っていた。貞和5年/正平4年(1349年)、直義が師直を襲撃しようとするも師直側の反撃を受けた直義が逃げ込んだ尊氏邸を師直の兵が包囲し、直義の引退を求める事件が発生した。直義は出家し政務を退くこととなった。直義の排除には師直・尊氏の間で了解があり、積極的に意図されていたとする説もあるが、後の直義の言動より、直義の師直襲撃にも尊氏は言質を与えていたものと思われ、尊氏は優柔不断に直義にも師直にもいい顔をしていたとの説もある。

師直は直義に代わって政務を担当させるため尊氏の嫡男・義詮を鎌倉から呼び戻し、尊氏は代わりに次男・基氏を下して鎌倉公方とし、東国統治のための鎌倉府を設置した。直義の引退後、尊氏庶子で直義猶子の直冬が九州で直義派として勢力を拡大していたため、観応元年/正平5年(1350年)、尊氏は直冬討伐のために中国地方へ遠征した。すると直義は京都を脱出して南朝に降伏し、桃井直常畠山国清ら直義派の武将たちもこれに従った。直義の勢力が強大になると、義詮は劣勢となって京を脱出し、京に戻ろうとした尊氏も打出浜の戦いで敗れた。尊氏は高師直・師泰兄弟の出家・配流を条件に直義と和睦し、観応2年/正平6年(1351年)に和議が成立した。この交渉において尊氏は寵童饗庭氏直を代理人に立てたが、氏直には直義に「師直の殺害を許可する」旨を伝えるように尊氏は命じたという記録が残っている[3]。果たして師直ら高一族は護送中に彼らを父の敵として恨んでいた上杉能憲により殺害された。

直義は義詮の補佐として政務に復帰した。上記の通りこの一連の戦闘の勝者は直義であり敗者は尊氏であったが、このころから尊氏は常軌を逸した行動をとりはじめ、尊氏派の武将の優先を直義に約束させる、上杉能憲の死罪を主張し直義との交渉の末これを流罪にする、謁見に現れた直義派の細川顕氏を降参人扱いし太刀を抜いて縅すなどまるで勝者のように振る舞う。こうした尊氏の異常な態度に細川顕氏などは恐れをなし、また直義の北条泰時を理想とする守旧的な政治は幾度の戦乱を減て現実に即しているとは言い難い状態になっており、尊氏派に宗旨替えする武将が続出し尊氏派が実際に優勢であるという情勢ができてゆく。このような情勢の中で直義派の武将が殺害されたり襲撃されたりするなど事件が洛中で続発し、終には直義は政務から再び引退するに至る。尊氏・義詮は佐々木導誉や赤松則祐の謀反を名目として近江・播磨へ出陣し、実際には直義・直冬追討を企てて南朝方と和睦交渉を行なった。この動きに対して直義は北陸を経由して鎌倉へ逃亡した。尊氏と南朝の和睦は同年10月に成立し、これを正平の一統という。並行して尊氏は直義を追って東海道を進み、駿河薩捶山(静岡県静岡市清水区)、相模早川尻(神奈川県小田原市)などでの戦闘で撃ち破り、直義を捕らえて鎌倉に幽閉した。直義は、観応3年/正平7年(1352年)2月に急死した。『太平記』は尊氏による毒殺の疑いを記している。尊氏は直義の死後病気がちになり、以後政務は義詮を中心に執られることになった。

尊氏が京を不在にしている間に南朝方との和睦は破られた。宗良親王新田義興義宗・北条時行などの南朝方から襲撃された尊氏は武蔵国へ退却するが、すぐさま反撃し関東の南朝勢力を制圧する。一方その頃南朝勢力が正平一統の和平を破棄して洛中に侵攻し、義詮は破られ北朝の天皇や上皇を拉致し、北朝が消滅、足利政権の正当性も失なわれるという危機が発生する。しかし導誉が後光厳天皇擁立に成功した為北朝が復活、足利政権も正当性を取り戻した。その後導誉と対立して南朝に下った山名時氏楠木正儀が京を襲撃して義詮を破り京を占拠した。尊氏は義詮の救援要請をうけ京へ戻り義詮とともに京を奪還した。

文和3年/正平9年(1354年)には直冬を奉じた旧直義派による京への大攻勢を受ける。翌年には尊氏は京を放棄するが、結局直冬を撃退した。この一連の合戦では神南での山名氏勢力との決戦から洛中の戦に到るまで導誉と則祐の補佐をうけた義詮の活躍が非常に大きかったが、最終的には東寺の直冬の本陣に尊氏の軍が自ら突撃して直冬を敗走させた。尊氏はこの際自ら直冬の首実検をしているが結局討ち漏らしている。さらに尊氏は自ら直冬や懐良親王の征西府の討伐を企てるが、義詮に制止され果せなかった。延文3年/正平13年(1358年)4月30日、背中にできた腫れ物がもとで、京都二条万里小路第にて死去した。享年54。




  1. ^ 尊氏は以後も出家や遁世の願望を口にしたり文章や絵画で表現することが多く、また太平記には劣勢となった尊氏が切腹をしようとしては周囲に止められたといったエピソードが多く収録され、非常に精神的に不安定であったことが伺える。
  2. ^ この願文は文法や文字に乱れが大きい。
  3. ^ こうしたことから尊氏は直義と師直の争いを利用して巧妙に直義も師直も排除する陰謀を張り巡らしたと見る向きもある。
  4. ^ 山上八郎『日本甲冑100選』p. 112(秋田書店、1974年)
  5. ^ 佐藤進一は尊氏を躁鬱病ではないかと推測しているが、佐藤は歴史学者で、医学の専門家ではない。
  6. ^ e国宝に画像と解説有り(外部リンク
  7. ^ 藤本正行 『鎧をまとう人びと』吉川弘文館、2000年、164-189頁。ISBN 978-4-642-07762-0
  8. ^ 下坂守 「守屋家本騎馬武者像の像主について」『京都国立博物館学叢』第4号所収、1982年。京博公式サイトに掲載PDF
  9. ^ 黒田日出男 『肖像画を読む』 角川書店、1998年
  10. ^ 武田左京亮文秀像に寄せた蘭坡景茝の賛文(『雪樵独唱集』収録)
  11. ^ 宮島新一 『肖像画の視線』 吉川弘文館、2010年、33-35頁。ISBN 978-4-642-06360-9


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