武田氏の侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/12 07:20 UTC 版)
詳細は「西上野侵攻」を参照 永禄4年(1561年)11月、長野業正が没すると(前年に没した説もあり)14歳(17歳とも)で子の長野業盛が家督を継いだ。長野業正は臨終に際し「我が葬儀は不要である。菩提寺の長年寺に埋め捨てよ。弔いには墓前に敵兵の首をひとつでも多く並べよ。決して降伏するべからず。力尽きなば、城を枕に討ち死にせよ。これこそ孝徳と心得るべし」と伝え、その死は永らく秘匿された。しかし、業正の死を知るや武田信玄は再び西上野への侵攻を開始した。近隣の城を落とし、また調略を仕掛け寝返らせていった。 永禄8年(1565年)頃には箕輪城は孤立していき、永禄9年(1566年)武田軍は箕輪城への総攻撃を仕掛け、頼みの上杉謙信の援軍を待たずして9月下旬には遂に落城し長野業盛は自刃して果てた。
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