武田氏の信濃侵攻に抵抗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 02:03 UTC 版)
当初は惣領である岩村田大井氏と共に武田晴信の佐久郡侵攻に対抗していたとみられ、天文15年(1546年)に本家の大井貞清が降伏した後も降伏せず、耳取城の大井政継と共に抵抗を継続していたとみられる。同19年(1550年)10月に武田軍が砥石崩れで村上義清に大敗すると、村上軍は佐久郡に逆侵攻し、11月には義清自らが小諸城に着陣し、武田方の野沢・桜井山城の宿城に放火したという。このことから、大井高政ら佐久郡の反武田国衆は村上義清の加勢の元で武田氏の侵攻に対抗していたとみられる。 しかし、翌20年(1551年)に村上氏の拠点である砥石城が攻略され、同22年(1553年)に村上義清が武田氏に葛尾城を追われ、周辺に主な武田氏への対抗勢力が消滅してしまう。翌23年(1554年)に武田義信の初陣も兼ねて武田信繁により佐久郡の残党掃討が行われ、この際に漸く武田氏に降伏した。降伏後の小諸大井氏は存続を許され、信濃先方衆としてその後も小諸城に在城した。
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