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松平信康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/12/11 04:53 UTC 版)

松平 信康
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永禄2年3月6日1559年4月13日
死没 天正7年9月15日1579年10月5日
改名 竹千代(幼名)→信康
別名 次郎三郎、岡崎三郎(通称)
隆岩、隆厳(号)[1]
徳川信康?
戒名 騰雲院殿隆厳長越大居士
墓所 成道山松安院大樹寺
愛知県岡崎市若宮八幡宮
静岡県浜松市天竜区二俣町の清滝寺
静岡県静岡市清水区江尻東の江浄寺
氏族 松平氏徳川氏
父母 父:徳川家康、母:瀬名(築山殿
兄弟 信康亀姫秀康督姫
秀忠忠吉振姫信吉
忠輝松千代仙千代義直
頼宣頼房市姫
正室:徳姫織田信長の娘)
側室:浅原昌時の娘
登久姫(小笠原秀政正室)、
妙高院本多忠政正室)

松平 信康(まつだいら のぶやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将徳川家康の長男(嫡男)。母は関口義広の娘で今川義元の姪の瀬名(築山殿)。安祥松平家7代当主。また、後に松平宗家の居城の岡崎城主愛知県岡崎市)を務めたため、祖父と同様に岡崎三郎(おかざきさぶろう)を名乗った。

目次

名乗り

徳川氏を継ぐことなく死去したため徳川氏を名乗っていないとされるが、今日では徳川 信康(とくがわ のぶやす)と表記されることも少なくない。理由は江戸時代に入ってから、江戸幕府は将軍家と御三家のみ「徳川」を名乗ることを許可したので、それ以後に表記の再統一が行われ、存命中は徳川家康の嫡男として“徳川信康”と名乗っていたが、後世には“松平信康”と伝わった可能性も否定できないからである。

生涯

永禄2年(1559年)3月6日、松平元康(後の徳川家康)の長男(嫡男)として駿府で生まれる。今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしたが、桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長氏次との人質交換により岡崎城に移る。

永禄5年(1562年)、家康と織田信長による清洲同盟が成立する。永禄10年(1567年)5月、信長の娘である徳姫と結婚し、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らす。同年6月に家康は浜松城(浜松市中区)に移り、岡崎城を譲られた。7月に元服して信長より偏」を与えられ信康と名乗る。

信康は若い頃から勇猛果敢で、天正3年(1575年)17歳で初陣を長篠の戦いで飾り、その後も武田氏との戦いでいくつもの軍功を挙げ、闘いぶりが注目された。特に天正5年(1577年)8月の遠江横須賀の戦いで退却時の殿軍を務め、武田軍に大井川を越させなかったと伝わる。岡崎衆を率いて家康をよく補佐したという。特に1歳下だった大久保忠教の『三河物語』によると、会話は戦のこと、やることは乗馬と鷹狩りばかりで、典型的な武辺者だったと描かれている。

信康の切腹についても『三河物語』の記述が詳しい。それによると、信長の娘である徳姫は今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、天正7年(1579年)、父・信長に対して12箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣酒井忠次に託した。手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通した、と記されていたとされる。信長は使者の忠次に糺したが、忠次は信康を全く庇わず、すべてを事実と認めた[2]。この結果、信長は家康に信康の切腹を要求した。

徳川家中では、信康への処断に対して反対する声が強く、信長との同盟破棄を主張する家臣もあった。傅役の平岩親吉は、責任を自分が被り、自らの首を信長に差し出すことを求めた。しかし家康は、徳川家の老臣が既に認めてしまった以上、そのような小細工では信長の怒りを反らすことは出来ないと判断し、信康の処断を決断した。8月29日、まず築山殿が二俣城(守将は大久保忠世)への護送中に佐鳴湖の畔で、徳川家家臣の岡本時仲、野中重政[3]により殺害された。さらに9月15日、事件以降の幽閉先であった二俣城(浜松市天竜区)にいた信康に切腹を命じた。介錯人は服部正成だったが、正成は主命とはいえ主筋に刃を向けることが出来ず、別の者が介錯にあたった。享年21(満20歳没)。

徳川実紀』では信康を次のように評価している。「東照公(家康)の公達あまたおはしましける中に、岡崎三郎君(松平信康)はじめ、越前黄門(結城秀康)、薩摩中将(松平忠吉)等は、おづれも父君の神武の御性を稟させられ。御武功雄略おおしく世にいちじるしかりし中に」。

人物・逸話

  • 信康は、二俣城主で家康の信頼厚かった大久保忠世に自らの無実を改めて強く主張したが、服部正成の介錯で自刃したという。この時、正成が涙のあまり刀を振り下ろせず、検死の武士天方道綱(山城守)が代わって介錯したとの話も残る。道綱は家康が嘆き悲しむのを見て出家したと言われる。
  • 服部正成の逸話は『柏崎物語』、関ヶ原での家康の嘆き、家康と忠次の問答、幸若舞の場面、信長が信康を恐れたという逸話は『武辺雑談』『東武談叢』『寛元聞書』をそれぞれ出典として『徳川実紀』中に紹介されている[4]
  • 家康も信康の死をいたく悲しみ、関ヶ原の戦いで三男の秀忠が遅参した時、「信康がいればこんな思いをしなくて済んだ」と言ったという。なお、関ヶ原の戦いが起こったのは奇しくも信康の21年目の命日であった。
  • 後年、忠次が嫡男・家次の所領が少ないことに対する不満を家康に訴え出たところ、「お前も我が子が可愛いか」ときつい嫌味を返したという逸話が残っている。
  • また、幸若舞を忠世・忠次と共に見た時、主のために自分の子の首を差し出す場面を見て落涙した家康が「両者あれを見ろ」と言い、それに対し両者が恐縮したという。
  • 信長は英邁な信康を恐れたという(高柳光壽は、信長が自分の嫡男・信忠より優れた器量を持つ信康の将来を恐れたという説を唱えているが、根拠となる史料は示していない)。
  • 冷遇されている異母弟・秀康を信康は不憫に思い、父・家康との対面を果たさせるなど、情に厚い一面があった。
  • 信康の切腹には殉死[5]を出すほどの人望があった。
  • 関ヶ原の戦いの前夜に、信康の孫娘と小西行長の嫡男・兵庫頭の婚約が、家康から行長に持ちかけられている。この孫娘は、親等では福島正則の養子正之と結婚した満天姫とほぼ等しく、家康の血を引くという点ではより近い血縁といえる。婿として国主大名の嫡子が選ばれていることは、信康の血統が重視されていた証拠といえる。また信康の家臣のうち、主だった者には交代寄合に任じられている者もおり、家康の信康に対する信任が伺える。

  1. ^ 『系図綜覧』では隆岩。『系図纂要』では隆厳。
  2. ^ 元禄期の軍記物『総見記』にも、この時両者の間で密談があったとしている。
  3. ^ 重政は、情け容赦もなく主筋に刃を向けたことで家康の恨みを買うことを恐れ、逐電した。
  4. ^ ただし『徳川実紀』は当の家康を開祖とする江戸幕府(徳川政権)の公式編纂書であり、家康を擁護・美化している可能性もあるため、家康に関する記述には十分注意するとともに、各出典についても精査する必要がある。
  5. ^ 清瀧寺(浜松市)には殉死した家臣、吉良於初(初之丞)の墓が残る。
  6. ^ ただし『当代記』は『安土日記』を引用したと思われる(田中敏貴・小山真人「近世初期の自然災害記録媒体としての『当代記』の特性分析」 『歴史地震』第16号、2000年 収録)ので、この記述は信長側からの視点であることに注意。
  7. ^ 国立公文書館アーカイブよりhttp://www.archives.go.jp/owning/monthly/0805/archives_index.html
  8. ^ 典厩は岡崎派と浜松派に分裂していたという直接的な根拠を具体的な史料を挙げて説明していないが、懲罰の例として石川数正松平康忠松平近正、本多重富、本多重次天野康景高力清長、天野貞久、伊奈忠次榊原清政植村家次の事件後の処遇を挙げている。
  9. ^ 施設スポット検索 - 清瀧寺 はままつ旅百花 - 観光情報サイト浜松だいすきネット~はままつ旅百花~
  10. ^ 秋元茂陽「徳川将軍家墓碑総覧」170-172p
  11. ^ 区指定・登録文化財一覧新宿区
  12. ^ 古河市観光協会 こがナビ 隆岩寺


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