津軽為信とは? わかりやすく解説

津軽為信

作者大栗丹後

収載図書戦国武将まんだら秘本三十六人
出版社春陽堂書店
刊行年月1999.8
シリーズ名春陽文庫


津軽為信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/24 15:19 UTC 版)

津軽 為信(つがる ためのぶ)/ 大浦為信(おおうらためのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名陸奥国弘前藩初代藩主。官位従四位下右京大夫


注釈

  1. ^ 黒石市浅瀬石星田文書に「石川左工門之介源高信は南部に行きて未だ還らず。城中支うる者なかりしかば為信は戦わずして攻略すること得たり。」「…南部高信が来たりて津軽を総監せしが、留守中為信に攻められ落城したり。」という記述がある。また大行院 (弘前市)の元禄15年(1702年)の書上帳に『一 十一面観音堂 寺山館ニ石川大膳天正二年ノ本尊長サ一尺五寸木造石川殿安置仏云』という記述もあるという[3]
  2. ^ 奥南落穂集では天正8年(1580年)石川城にて病死説、祐清私記では天正9年2月21日津軽で病死説を採っている。
  3. ^ 史料により天正16年説(奥南落穂集)、天正17年説(南部史要)もある。いずれにせよ3月16日に死没したという部分は共通している。南部氏の公認系図である『御系譜』には「為奥州津軽郡代、居浪岡城、天正十六年戊子年三月十六卒、行年廿九歳云々」とある。
  4. ^ 永禄日記元亀2年5月5日「八幡宮競馬、早朝ニ見物仕候。同夜大浦殿五百騎程ニ而石川大淵ヶ崎へ押寄大膳殿を落し候由。同日和徳讃岐も落し候而諸人驚入候。尤大浦殿ハ堀越町居飛鳥殿城江入り候。」とあるが、「候由」とあるようにこれは伝聞である。また黒石市浅瀬石星田文書のように、当時石川城は城主の石川高信不在であったとする記述もある。また大行院書上帳も高信の生存を示している。
  5. ^ 晴政書状(『南部家文書』100~102号)は浅水(三戸郡五戸町)方面攻めに八戸氏の加勢を依頼したもので、為信の独立を傍証するものではない。
  6. ^ 元亀2年~天正16年頃迄の為信の軍事行動について南部側編纂史料が触れていないことは事実である。しかしこれら遠野南部家所蔵文書については歴年が記されておらず、年代比定には慎重を要する。『岩手県史』においても「これら書状は同一年代のものか否か判明しない」とある。『青森県史』『新青森市史 資料編2』でも南慶儀書状が年代比定し直されている。それによると、天正17年(1589年)の段階でも津軽地方において為信が何らかの軍事行動を起こしていたとみられており『津軽一統志』の記述の信頼性も疑われる。よって天正17年前後に浪岡城が為信により襲われたとする南部側史料が専ら改竄されたものだという説は検証を要する。
  7. ^ 六羽川合戦では比山・滝本勢の侵攻を許しており、また撃退したとはいえ大浦勢も痛手を受けており、南部氏が浪岡氏旧臣を取り込んでいく中で完全に掌握できていたのかは疑問が残る。
  8. ^ 奥南落穂集』『津軽之事』に「石川高信君石川城にて天正八年死去有しといへども大光寺始め諸臣彦次郎政信君を補佐、北畠の臣下を服従せし故、自から南部家領知になり、行丘城(浪岡城)に移住し給ふなり。」とある。
  9. ^ 『奥南落穂集』『津軽右京大夫為信之事』では「天正十八年九戸政実宮野城に籠り、三戸勢之を囲み、日々合戦止む時なし。此時太閤秀吉公北条征伐として関東に下向あり、是まで殿下へ不通の輩は皆征伐の風説相聞得たる故に、右京密に上京縁を求めて近衛前関白前久公を頼り嘆願せしかば、前久公御承諾せられ、祖父尚通公落胤の孫に被成下、藤原姓杏葉牡丹の御紋所まで賜り、秀吉公への吹挙の御書持参して小田原御陣所へ下り、秀吉公に謁し、津軽郡四万五千石の安堵書を賜り、従五位下右京亮と被成下」とあり、小田原参陣を否定していない。
  10. ^ 『新青森市史 資料編2』では南慶儀書状の一つ(『南部家文書』112号)を天正17年(1589年)に比定し直しており、それによると天正17年時点で横内城や浜口(小湊口)などの外ヶ浜東部は依然として南部領として健在であり、天正13年に横内城主・堤弾正左衛門らを討ち外ヶ浜全域を手に入れたという津軽氏側の記述は脚色されたものだとしている。一方で『永禄日記』には天正13年3月に「大浦殿旗本勢千余人、三月二十九日門徒寺へ御留り、外ヶ浜不残御手に入候。」とあり、外ヶ浜攻略は天正13年と天正18年(1590年)の二度に渡って行われた可能性も指摘されている。
  11. ^ 弘前藩に織田信雄のお礼の書状が残されている。
  12. ^ 九戸氏討伐直後にも南部信直は小田原参陣時に続いて、為信を悪逆であると言い募り豊臣秀吉の奉行浅野長政に実父・石川高信の敵討の許しを願い出たので、長政は拒否するとともに不測の事態を避けるため、討伐軍に加わっていた為信に即刻領地へ帰るよう促したとされる。
  13. ^ 永禄日記慶長2年3月5日の項に「浅瀬石大和並、一子安芸両人堀越之城江呼寄、大勢取巻打取。三男城之介ハ先達而病死致候。其子息一人四歳ニ成しを家来引連南部江落行候。右者先年より謀反之心有之ニ付顧此度打取候由。」とあり、千徳氏を通説のような合戦ではなく謀略により殺害した可能性がある。

出典

  1. ^ 青森県弘前市大字新寺町、浄土宗月窓山栄源院貞昌寺に残る記録史料より
  2. ^ 長谷川成一、他 『青森県の歴史』 山川出版社〈県史〉、2000年、年表。 ISBN 4-634-32020-7
  3. ^ 大仏ケ鼻城を偲ぶ会 『つわものどもの夢のあと 石川城』、1981年。
  4. ^ 奥南落穂集』『祐清私記』『信直記』『南部史要』、松岡西庵書上、石井三庵政満覚書、等
  5. ^ 長谷川成一 著「本州北端における近世城下町の成立」、北海道・東北史研究会 編『海峡をつなぐ日本史』三省堂、1993年、153-156頁。ISBN 4385354618 http://hdl.handle.net/10129/2044
  6. ^ 秀吉から為信に宛てた朱印状、津軽家文書及び、白川亨『石田三成の生涯』(第二章十項「近世大名津軽家存続の背景と石田三成」)より。
  7. ^ 『弘前市史』では個人名を明記していないが、有力者との仲介をした秀吉側近の存在が言及されている。
  8. ^ 村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号、2013年。
  9. ^ 岩手県 「希望王国岩手放課後座談会(H21.1.22)」、2009年3月19日。
  10. ^ 畑浩治英雄津軽為信」『畑こうじ情熱ブログ』、2008年7月6日。
  11. ^ 太刀 銘 友成作”. 一般社団法人 弘前文化財保存技術協会. 2020年10月2日閲覧。
  12. ^ 弘前城合体ロボ「超城合体タメノブーンV」登場 株式会社ジェイクリエイト『観光Re:デザイン』
  13. ^ 超城合体タメノブーンV弘前市公式サイト


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