まつうら‐せいざん【松浦静山】
読み方:まつうらせいざん
まつら‐せいざん【松浦静山】
松浦静山
松浦清
(松浦静山 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/17 02:39 UTC 版)
松浦 清(まつら きよし)は、江戸時代中・後期の大名。肥前国平戸藩の第9代藩主。平戸藩世嗣だった松浦政信(第8代藩主・松浦誠信の三男)の長男。母は政信の側室・友子(母袋氏)。官位は従五位下。死後に贈従三位[1]。幼名は英三郎。号は静山。この号を合わせ、一般には「松浦静山」の呼び名が通っている。
- ^ 『官報』號外「授爵,叙任及辞令」1928年11月10日. (1928/11)
- ^ 川上徹也 『キャッチコピー力の基本 ひと言で気持ちをとらえて、離さない77のテクニック』日本実業出版社、2010年8月、169頁。ISBN 9784534047342 。
松浦静山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:18 UTC 版)
「義経=ジンギスカン説」の記事における「松浦静山」の解説
松浦静山は高い知識と教養を身につけていたが、文政4(1821)年から20年書き続けた『甲子夜話』正編巻88では、「義経韃靼に往(ゆき)しは実事なるべし」と記述している。既に同じく巻63では「予『金史』を見るに、批文なし」として「金史別本」を否定し、続編18でも「金史別録(まま)」を偽書と断定し、『図書集成』にも該当する記事がないとしながら、最終的には清祖を義経とする説を紹介している。しかも「愛新覚羅は今の音にて「アシハラ」なり……葦原中洲(あしはらのなかつくに)の訓に通うも何の故にや。亦其れの初めの我が国と続くことも有りてなるか」という論法を展開している。
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松浦 静山(まつら せいざん)
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「妻は、くノ一」の記事における「松浦 静山(まつら せいざん)」の解説
元平戸藩主。60代半ば。本所中之郷の下屋敷で『甲子夜話』を執筆しながら悠々自適の生活を送っている。心形刀流の達人で武術全般に通じている。タケとマツという名の2匹の赤犬を飼っている。
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