かきのもと‐の‐ひとまろ【柿本人麻呂】
柿本人麻呂
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柿本 人麻呂(かきのもと の ひとまろ)、斉明天皇6年(660年)頃 - 神亀元年(724年)3月18日[1])は、飛鳥時代の歌人。名は「人麿」とも表記される。後世、山部赤人と共に歌聖と呼ばれ、称えられている。三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。
注釈
- ^ 伊藤博・橋本達雄などによる。
- ^ 伊藤博による。
- ^ ただし人麻呂が石見国で死んだというのが虚構だとするのならば、なぜ人麻呂が石見国に結び付けられたのか(または人麻呂自身がなぜ石見国について取り上げたのか)、その理由について説得力のある説明は未だない。
- ^ 後世の資料であるが、「石州益田家系図」では正八位上・石見掾とする[10]。
- ^ ただし『古今和歌集』の古い伝本の多くはこの箇所を「おほきみみつのくらゐ」としており、「おほきみつのくらゐ」としているのは藤原定家が書写校訂した系統の写本に限られている。しかしでは、「おほきみみつのくらゐ」とは何なのかこれもまた不明である[11]。
- ^ 『万葉集』巻第三には大津皇子の辞世とされる歌があるが(416番)、その詞書には「大津皇子の死(ころ)されし時に(以下略)」とある。死の直前には身分に関わりなく「死」の字を使い、その人物の死亡が間違いない時点で「薨」や「卒」を使ったと見られる。人麻呂の場合もその詞書に「死に臨みし時に」とあり、この「死」の字のことをもって人麻呂が六位以下であったかどうかは判断できない。
- ^ 宇佐八幡宮神託事件で称徳天皇の怒りを買い、一時「別部穢麻呂」(わけべのきたなまろ)と改名された。
出典
- ^ 日光山常行三昧大過去帳
- ^ 『万葉集』巻10・2033左注
- ^ 『万葉集』巻2・217-219
- ^ 北山茂夫 1972, pp. 1–18.
- ^ 北山 2006, §その詩人的前歴を探る.
- ^ 『万葉集』巻2・220-222
- ^ 『万葉集』巻2・223-227
- ^ 『勅撰作者部類』
- ^ a b c d e f 佐佐木信綱編『新訂 新訓 万葉集 上巻・下巻』岩波文庫、1927年(1954年 改版)
- ^ 鈴木真年蔵書.
- ^ 久曽 1989.
- ^ 梅原 1983.
- ^ 篠原 1990.
- ^ 梅原 2001.
- ^ 「歌の聖」から「歌の神」へ高岡市万葉歴史館/平成13年度・春の特別企画展「柿本人麻呂とその時代」解説(2018年6月29日閲覧)
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