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八木秀次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/10/30 21:01 UTC 版)

日本の旗 日本の政治家
八木 秀次
やぎ ひでつぐ
八木秀次
生年月日 1886年1月28日
出生地 大阪府
没年月日 1976年1月19日(満89歳没)
出身校 東京帝国大学工科大学卒業
前職 八木アンテナ社長
現職 武蔵工業大学学長
所属政党 右派社会党→)
日本社会党
称号 陸軍工兵軍曹
勲一等旭日大綬章
文化勲章
工学博士

選挙区 全国区
当選回数 1回
任期 1953年5月3日 - 1956年6月3日
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八木 秀次(やぎ ひでつぐ、1886年明治19年)11月28日 - 1976年昭和51年)1月19日)は、日本工学者電気工学)、実業家政治家階級陸軍工兵軍曹勲等勲一等日本学士院会員

東京工業大学学長千葉工業大学顧問、内閣技術院総裁大阪帝国大学総長八木アンテナ株式会社社長参議院議員武蔵工業大学学長などを歴任した。

目次

概要

電気工学を専門とする工学者であり、宇田新太郎と共に開発した「八木・宇田アンテナ」の共同発明者として知られている。この発明を基に八木アンテナを創業し、その初代社長に就いた。東北帝国大学や大阪帝国大学では教鞭を執り、東京工業大学、武蔵工業大学などでは学長として奉職するなど、長年にわたり教育者として活躍した。また、太平洋戦争中は内閣技術院総裁、戦後は右派社会党日本社会党に所属し参議院議員を務めるなど、国政にも参画した。これらの業績により、文化勲章勲一等旭日大綬章を受章し、日本学士院会員にも選任された。

生涯

仙台高等工業学校、東北帝国大学時代

当時の電気工学の主たる関心がいわゆる強電と言われる電力工学にあったところをいち早く弱電分野の研究に取り組み、八木・宇田アンテナ、分割陽極型マグネトロン等の成果を生み出す。

財団法人斎藤報恩会から「電気を利用する通信法の研究」(八木秀次、抜山平一、千葉茂太郎)で1934年(昭和9年)度までに合計22万5000円の補助金を受けた。

八木が物理学科、金研で行われていた論文の輪読会に出席しあまりに鋭い指摘をするために、会の開催日を八木の属する電気工学科のゼミのある日と同じにして出席できないようにしようとする動きが出るほどだったという逸話がある。

学内に電気通信研究所の設立を構想するが、実現は八木が大阪帝大に異動した後の1935年(昭和10年)になる。

大阪帝国大学理学部時代

大阪帝国大学の初代総長であった長岡半太郎の要請により大阪帝国大学に移籍。大阪帝国大学の理学部物理学科の初代主任教授となる。

菊池正士の原子核物理研究を主任教授として予算的にも人的にも支援した。 講師として在職していた湯川秀樹を叱咤激励し、それが後にノーベル物理学賞を受賞する中間子論に関する論文につながったとされている。

大学教授時代

八木は講義の際、学生に「本質的な発明ができるようになるためには心眼で電波が見えるようにならなければならない」と教えていた。これをオカルト的に解釈するのが間違いであることは言うまでもなく、「見えない物の挙動を科学的な推論によって把握する能力―科学者としての勘を持たなければ本質的な発明はできない」という意味である。

技術院総裁時代

八木はレーダー開発など立ち遅れていた日本の科学兵器開発を指導するため、海軍の永野修身軍令部総長の推薦を受けて技術院総裁に就任した。内閣技術院の総裁である八木自身も熱線誘導兵器の研究を推進していた。因みに同研究は技術者の井深大と海軍技術将校の盛田昭夫が出会い、戦後ソニーを創業するきっかけとなった。

敗色濃厚となった1945年(昭和20年)には衆議院予算委員会で質問に応え、「技術当局は『必死でない必中兵器』を生み出す責任があるが、その完成を待たずに『必死必中』の特攻隊の出動を必要とする戦局となり慙愧に耐えない」との大意の答弁を行っている。これを聞いて委員会出席者中には涙する者もあったとの当時の報道がある。精神主義、特攻隊賛美ばかりが横溢する戦時下にあって、科学技術者としての勇気を示した発言として名高い[1]

戦後

大阪帝大総長を公職追放で追われてからしばらくは生活に困窮した時期があった。この時、大正末に取得された八木・宇田アンテナの特許はすでに期限が切れていた。かつての弟子達が電気工学関係の教科書を分担して執筆し、八木に印税を寄付して支援した。

八木はドイツ・イギリス留学時代から労働運動や社会主義に関心があり、日本フェビアン協会の会員でもあった。戦後も政治に関わり、ジョージ・バーナード・ショーなどを終生読んでいたという[要出典]

直接の弟子でなく面識もない江崎玲於奈西澤潤一を学士院賞に推薦した。晩年に至るまで学術の情報収集を欠かさず、人材の発掘・育成に尽くした。

略歴

北野中学三高を経て、




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  1. ^ 1945年1月24日衆議院予算委員会、三木武夫委員に対する答弁(第86回帝国議会衆議院予算委員会議録(速記)第4回56頁)
    「只今決戰兵器ト云フ御尋ネガゴザイマシタガ、必死必中ト云フコトガ申サレマスルガ、必死デナクテ必中デアルト云フ兵器ヲ生ミ出シタイコトハ、我々豫テノ念願デアリマシタガ 是ガ戰場ニ於テ十分ニ活躍致シマスル前ニ、戰局ハ必死必中ノアノ神風特攻隊ノ出動ヲ俟タナケレバナラナクナツタコトハ、技術當局ト致シマシテ洵ニ遺憾ニ堪ヘナイ、慚愧ニ堪ヘナイ所デ、全ク申訳ナイコトト考ヘテ居リマス、一日モ早ク必死必中デナク必中ノ兵器ヲ生ミ出サナケレバナラヌト考ヘル次第デアリマス」


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