ジュンガル帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 07:10 UTC 版)
17世紀、ダヤン・ハーンの一族によって打倒されたオイラト部族連合はモンゴル西部~ジュンガル盆地におり、その盟主はドルベト部で、ドルベト部の左翼を担っていたのが、ジュンガル部であった。やがてオイラト部族連合はモンゴルのハルハ部を破って独立を果たしたが、新たなオイラト盟主ホシュート部で内乱がおこると、オイラトのトルグート部は内乱を避けて遥かヴォルガ河畔へ避難し、これが現在のカルムィク人となる。ホシュート部の内乱を収束し、新たな部族長になったのがグーシ・ハーンであった。彼はチベット仏教のゲルク派を擁護し、施主として青海に本拠を置いた。これが青海ホショト部となり、現在のオイラド族となる。一方、盟主がいなくなったオイラト本国はジュンガル部族長のバートル・ホンタイジに任され、ジュンガル部が新たな盟主となり、次のガルダン・ハーンの代でモンゴルを破って最大版図を実現し、ジュンガル帝国と呼べる政権を築く。1755年、清朝の侵攻によりジュンガルの帝国は崩壊し、その支配下に入ったが、天然痘の流行によりジュンガルの移民はほぼ全滅した。後に無人地帯となったイリ地方にヴォルガ河畔から一部のトルグート部が帰還した。これも現在のオイラド族となる。
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