ジュンガルの衰退と滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 08:34 UTC 版)
「ジュンガル」の記事における「ジュンガルの衰退と滅亡」の解説
1745年、ガルダンツェリンが亡くなると、ジュンガル部およびオイラト部族連合はたちまち分裂状態となった。1750年に息子のラマダルジャー(モンゴル語版、ロシア語版)が継いだが、兄弟での内紛が勃発、1753年にはホイト部長のアムルサナー(中国語版、ロシア語版、ドイツ語版)によってバートル・ホンタイジの玄孫であるダワチ(モンゴル語版、ロシア語版)が擁立され、ラマダルジャーは殺害された。しかし同年からドルベト部などが清に投降するようになり、1754年にはダワチと不和になったアムルサナーまでも清に投降した。1755年、清の乾隆帝はこの機に乗じてモンゴル軍と満州軍を動員した大軍をジュンガルに進軍させ、わずか100日でタリム盆地に逃げ込んだダワチを捕獲し、ジュンガル帝国を滅ぼした。 清朝は四オイラトにちなんで帰属したオイラトの人々を四部に分け、各部にハーンを置こうとした。しかし、1757年にアムルサナーがこれに不満を抱いてホンタイジと称し、鉄の菊印璽を勝手に使用して清朝に叛き、独立を宣言した。その後アムルサナーは清軍の追撃を受けてカザフの中ジュズに逃げ込んだが、ザイサン湖に到着した時、天然痘を発病し、トボリスクで死んだ。一方、捕えられたダワチは北京で庇護され、清皇室の王女と結婚したが、酒に溺れて1759年にカルガンで死去した。 その後のジュンガル残党はしばしば清軍を襲撃するなどしたが、それを掃討する清軍によって天然痘が持ち込まれ、オイラトの人口が激減し、特にジュンガルの人々はほぼ全滅した。
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