試験運用
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完成後大阪運転所に配置され、山陽新幹線岡山 - 博多間での試験走行が行われた。ただし、工事の遅れと労使問題から、当初予定した内容の試験を十分実施するには至らなかった。1979年(昭和54年)に小山試験線(現・東北新幹線小山駅付近)での試験走行を行うべく浜松工場で必要な機器やスノープラウ(1号車のみ)を設置の上、東京都品川区大井の車両基地(現・東京第二車両所)から栃木県小山市の試験線管理所(現・小山新幹線車両センター)へ陸送された。なお塗装は、廃車まで0系に準じた白地に青いラインのままだった。国鉄時代末期には青帯の下に赤いラインを追加していたが、JR化後に撤去された。 小山試験線での試験走行中の1979年12月7日、当時の電車の世界最高速度記録の319km/hを記録している(試験当時の前方の先頭車両が東京方961-1で高速試験された)。試験終了後は試験線管理所に留置されていたが、東北新幹線の開業に先立つ1982年 (昭和57年) 5月、同様に小山試験線で試験走行をしていた962形4両 (この際、仙台・新潟寄りの2両は上越新幹線での試験のため新潟運転所に送られた) とともに仙台総合車両所(現・新幹線総合車両センター)に移動、検査期限の関係から両車とも自力走行が不可能である事から925形の牽引によった。962形は電気軌道総合試験車の925形10番台(S2編成)に改造されたが、961形は1・4・5・6号車の4両編成に短縮され、5号車の片側4箇所の側開口部には両側ともシャッターが取り付けられて仙台総合車両所に留置されていた。 その後行われた速度向上試験には925形10番台が使用され(ただし3台車構造の921形軌道試験車を編成から外した)、961形はその出番がないまま1990年(平成2年)8月10日付で廃車された。 東海道・山陽と東北の両系統の新幹線を走行した車両としては、他に軌道試験車921-1があるだけで、珍しい経歴を持つ車両である。だが仙台総合車両所(現・新幹線総合車両センター)へ転用後、出番がなかったため、上越新幹線での走行経歴を持っていない。
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試験・運用
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「ソ連運輸省2TE121形ディーゼル機関車」の記事における「試験・運用」の解説
最初に製造された2TE121-001は製造後に試験運転が行われたが、軸重が26.5 tと重く、ソ連の多くの非電化路線における最大軸重に対応していなかった。それを受け、翌1979年から1983年にかけて軸重を25 tに抑え車体長も21,000 mmに短縮した3両の試作車(002 - 004)が製造され、再度試験運転に用いられた。そして同年に製造された2TE121-005は冷却装置が変更された他、前面形状が直線型に改められた。以降はこの車両を基に量産が行われ、1992年までに試作車も含め計76両が製造された。 量産車は高出力のためより高速で重量級の貨物列車を牽引する事が可能となった他、2TE10V形より燃料消費量が8-10%削減され、運転台の作業環境の改善なども高い評価を得た。だがその一方で各部品の故障が頻発し、1987年にはソ連国鉄側からも公式文書で2TE121形の導入に疑問を呈するほどであったが、当時のヴォロシロフグラードディーゼル機関車工場は他形式の機関車の大量生産も同時に実施しており、ベアリングを始めとした部品の安定した供給は難しい状況だった。 その後、1992年12月のソ連崩壊の影響で貨物輸送量が大幅に減少し財政面でも問題が生じた事から、2TE121形の走行路線を継承したロシア鉄道とウクライナ鉄道はそれ以上の導入を取りやめた。更に構造が複雑だった事から製造メーカーであるルガンスクディーゼル機関車工場以外での修繕は困難であり、前述の通り部品調達も難しい状況であった。その結果、1990年代までにウクライナ鉄道が所有していた2TE121形は全車運用から離脱し、ロシア鉄道の残存車も2000年代までに引退した。
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