試作車
試作車とは、量産車と対比して使われる言葉で、量産に移行する前に文字どおり図面に基づいて試しにつくられるクルマである。試作車は、その目的から、研究開発用試作車、量産確認用試作車に分けられる。試作車のコストはその生産台数によって異なるが、研究開発用で量産車の10倍、量産試作用で数倍レベルにあり、必要最小限の数で短期間、計画的に密度の高い利用がはかられる。研究開発用の試作車は最後には衝突テストに供されることが多いが、量産試作車は生産性や品質を確認して、設備や作業手順の修正などに施されたあと、化粧を施してカタログ撮影とか展示車とか、組立て作業訓練やサービス訓練用などに使われる。
参照 試作プロトタイプ
(試作車 から転送)
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プロトタイプ(英: prototype)は、原型[1]。最初の、形にしたもの。それを土台にしてさまざまなパターンを生み出してゆくための、最初のもの[2]。試作品[1]。
- ^ 「試しに作る品」という意味になるように造語された用語である。ただしこの言葉を使う人が皆、これを言う前に毎回それをはっきり意識しているかどうかは定かではない。
- ^ 野球で打席に立ってバットを振っても、出塁できるのは通常は2〜3割程度にすぎず、残りの7〜8割は結果が出ずベンチに戻る、というのと同じことが、開発の世界でも通常は起きている。消費者の側は、製品化されて自分が眼にすることになったものばかりに気を奪われ、そういったもののプロトタイプの情報ばかりを見ているので、プロトタイプはきっと量産化すると勘違いしているきらいがあるが、そうではなく、たいていのプロトタイプは、何度か作っても期待ほど使い勝手が良くなかったり、期待の性能値が出せなかったり、仕様を詰めて生産コストなどを計算してみたら採算が採れないと判明するなどして、製品化されずに終わる。形にしたことでそのようなことが分かり、無謀な大量生産をせずに済み、破綻を免れることができるということも、プロトタイプを作る目的のひとつである。
- ^ いきなりの大量生産したとして、生産ラインの端から次々と出てきたものを見て、その段階で、ほぼ間違いなく品質が不完全な品(不良品)だと気づくことになる。(「かも知れない」ではない、ほぼ間違いなく、である)、大量の不良品を作る結果を生み、不良品は販売することもできず、うっかり販売すれば自社製品の信用はガタ落ちとなりその後は自社製品の売上は低迷する。またうっかり販売してしまった不良品は自社負担で(送料なども負担するなどして)回収しなければならなくなり大赤字であるし、また不良在庫の山を作り出し結局廃棄物として処分するのに莫大な費用がかかる。小規模な会社やスタートアップ企業なら不良品の大量生産を1〜2回するだけで倒産する。大企業も数回やらかすと信用がガタ落ちとなり、販売が低迷し、没落してゆく。もちろん、滅びたければ、どんなガラクタでも大量生産はできる。
- ^ 日本においては、プロトタイプの段階から次の段階へ進み、人々に見せてもよい段階に入ったものは「デモ版」「デモ・プログラム」「ベータ版」、まれに「アルファ版」(ベータ版の更に手前)などと呼ばれる。
- ^ 他社との競争に勝つために開発段階の技術は、基本的に、他社に漏れないようにする。 秘匿のしかたについて言うと、 サスペンション、エンジン、トランスミッションなどの見えづらい部分について新しい技術を導入する場合、現行型を改造してプロトタイプとする場合もある(その場合、外観ではプロトタイプとは知られない)。フレームや雨避けに関するプロトタイプだと、見る人が見れば現行車種と異なることが分かり、プロトタイプとバレてしまう。秘匿するために、スタイリング決定後に公道で試験を行うプロトタイプは、人々に知られないように、覆面や偽装を施すこともある。
- ^ 例外はある。人間は他人(他社)の秘密を知りたがるという心理的性質を利用して、まるで釣りの疑似餌のように、人々の関心を釣るために使うのである。マーケティングやブランディング手法のひとつである。プリンス・R380やトヨタ・2000GTの速度記録試験車、果てはソニーが次世代のカーエレクトロニクス・カーデバイスの検証用として試作されたセダン型電気自動車・VISION-Sなどは、宣伝目的で、意図的にメディアに露出された。
- ^ a b 精選版 日本国語大辞典「プロトタイプ」
- ^ Merriam Webster, prototype.
- ^ McDermott, Kara (2018年7月17日). “Eat your heart out, Elon Musk: Behold these ugly electric cars from Seattle's past” (英語). KUOW 2021年6月11日閲覧。
- ^ 試作していても《試作止まり》になってしまうことはあるのだが、"試作車は量産に至るのが当たり前だ" と思っている人は、(事後的に)「量産先行車」「先行量産車」などと呼ぶこともある。
- ^ JR北海道の相次ぐ事故、不祥事及び、北海道新幹線の開業準備の計画、安全性に伴い開発が中止されたため。
試作車(901系)
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「JR東日本209系電車」の記事における「試作車(901系)」の解説
1992年(平成4年)3月に登場し、浦和電車区(現・さいたま車両センター)に10両編成3本(30両)が配置された。当初は901系と称したが、1994年(平成6年)1月から3月にかけて量産化改造を行った上で本系列の900・910・920番台とされた。901系としての落成当初は上部側面帯の色が■黒色であったが、量産化に伴い下部側面帯と同様の■スカイブルーに変更された。 0番台の仕様と極力合わせる量産化改造が実施されたが、主要機器はそのままであった。この特殊仕様が保守上の弱点となったことや、車体の老朽化が0番台と比べると顕著となったことから、500番台を転入させることによってE233系の導入を待たずに早期に運用を離脱した。
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試作車(1983年度製)
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「営団01系電車」の記事における「試作車(1983年度製)」の解説
1983年(昭和58年)5月中旬に川崎重工業で落成し、搬入された第01編成が該当する。入籍は9月、営業運転は1983年(昭和58年)12月31日の終夜運転からである。正確には、1984年(昭和59年)1月1日0時15分発車の上野駅発浅草駅行きより営業運転を開始した。 営業運転は当初の予定は量産車が登場する1984年秋頃であった。本編成は新しい方式の制御装置を採用したため、制御回路から発生するノイズによる軌道回路の誘導障害などの確認と対策が必要とされ、1983年(昭和58年)6月より12月まで各種の性能試験を実施していたが、日中に銀座線で試運転を実施した際に、これを見た乗客から「いつから乗れるのか」といった問い合わせが営団に多く寄せられたため、時期を大幅に早めることとなった。 銀座線用車両は小形であるため、制御方式には機器の小形化の見込めるリニアモーター駆動、VVVFインバータ制御、分巻チョッパ制御の3つを検討した。前者2つはコスト面などから断念し、従来のチョッパ制御の改良型である高周波分巻チョッパ制御(4象限チョッパ制御。1C4M制御方式)を日本の鉄道車両として初めて採用した。このチョッパ装置は、従来営団で設計製作していたチョッパ装置は20 m車用であり、小形の銀座線用車両には筐体が大き過ぎて実装が困難であったことから、同線用として極限まで小型化された。スイッチング素子には設計当時量産段階に到達したばかりの大容量GTOサイリスタを採用、これによって主回路構成の簡素化が可能となり、従来のチョッパ制御装置に比べて重量・スペースなど約20 %の小形軽量化を実現している。 この試作車では1両ごとに三菱電機・日立製作所・東芝製の制御装置を搭載している。なお、制御装置は主チョッパ装置(電機子チョッパ装置)と界磁チョッパ装置の2種類のチョッパ装置を搭載する。 台車は京阪電気鉄道で1960年代中盤以降大量採用され、曲線通過性能が良好と評価されていた、軸箱支持装置が側梁緩衝ゴム式の住友金属工業FS-520(動力台車)・FS-020(付随台車)空気ばね台車が新規設計された。従来車両と比べ軸距は2,200 mmから2,000 mmに短縮、さらに4象限チョッパ制御による回生ブレーキの常用を前提にして基礎ブレーキを両抱き踏面式から片押し踏面式に変更し、曲線通過時の転向性能の向上と軽量化、それに床下艤装スペースの拡大を図った。 主電動機は前述の通り高周波分巻チョッパ制御であることから、直流分巻他励式整流子電動機(分巻電動機)が採用された。営団の社内形式はMM-3Aであり、定格値は端子電圧300 V、電流440 A、出力120 kW、回転数1,600 rpmである。 銀座線ではその開業以来、丸ノ内線用車両向け機器の試験車であった1400形で一時SMEE電磁直通ブレーキを採用した以外は、在来車各形式との混用・混結の必要性などから、丸ノ内線向けと同様にWNドライブを採用した車両を含め、ブレーキシステムとしてウェスティングハウス・エア・ブレーキ社 (WABCO) 開発のM三動弁によるAMM自動空気ブレーキ、あるいはこれに電磁給排弁を付加して6両編成化を可能としたAMME電磁自動空気ブレーキが長らく使用されてきた。本系列では将来的な在来車全数の置き換えによるATSなどの保安システムを含めた銀座線のシステム全体の刷新を念頭に置いて、在来車との混結を想定しない計画となったことから、応答性に優れシステムの簡素化が可能、しかもチョッパ制御器による回生ブレーキとの同期・連係動作に有利な電気指令式ブレーキが採用され、前述したように運転台のブレーキ操作も制御器と一体化した2軸横軸マスコンに統合され、操作の容易化が実現した。 走行機器類 FS520形動力台車 FS020形付随台車 高周波分巻チョッパ装置の主チョッパ装置(モーターの電機子を制御する) 高周波分巻チョッパ装置の界磁チョッパ装置(モーターの界磁を制御する) 前述のように、車内の化粧板はつや消し仕上げ、座席モケットは8000系落成時と同様のワインレッドに区分柄入りのものを、シルバーシート(当時)はグレーの単色をそれぞれ採用した。側窓枠についてはアルミ製である。 この編成の車内案内表示器はデザインの違いで3種類あり、次駅開扉予告灯は設置されなかった。前記の通り、溜池山王駅開業時に量産タイプに交換されている。また、そのためドアチャイムも第02編成以降とは異なる音色であった。
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試作車(X0 → X1編成)
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「新幹線100系電車」の記事における「試作車(X0 → X1編成)」の解説
試作車である9000番台X0編成(1985年3月27日落成・1986年8月から10月にかけて量産化改造を実施し、X1に改番)は、量産車とは以下にあげる違いが見られた。 前照灯の角度が大きめであり、16号車(124-9001)の窓下の桟がV字型となっている。 食堂車である8号車の168形を除いて小窓である。 9号車の東京方に出入り口はなく、10号車の博多方には出入り口があった。量産化改造を経て、9号車の荷物室の位置に出入り口が新たに設置され、10号車のそれは撤去されて新たに荷物室となった。 9号車1階部分はグリーン個室の仕様が決定していなかったことから何も設置されず、平屋構造の10号車(116-9001)博多方に個室(1人用2室・2人用1室)が設置されていた。後に9号車の1階部分にも個室(1人用4室・3人用6室)が設置された。量産車との設備統一を目的として1986年に、10号車の個室は撤去され、9号車の個室の配置を量産車にあわせた。 貫通路の高さが0系と同じ1,800 mm(量産車は1,900 mm)である。 特高圧引き通し準備工事の実施(X2編成以降はコスト削減のために未実施)。 1985年3月27日に公式試運転を東京駅 - 三島駅間で行った。その後、直ちに営業運転に使用せず、4月には東京駅 - 博多駅間で営業速度での試験を実施した。さらに、9月まで速度向上試験を実施し米原駅 - 京都駅間で230 km/hを、小郡駅(現・新山口駅) - 新下関駅間で260 km/hを記録した。 1985年10月1日から「ひかり3号」(東京8:00発博多行き)と折り返し「ひかり28号」(博多15:45発東京行き)の1往復(いずれもWひかり。ただし後者は基本停車駅に小郡駅を追加)で営業運転を開始した。食堂車の担当は日本食堂。当日は、営業運転開始に当たって東京駅で出発式が行われた。ただし、1編成しか在籍していなかったため、検査日は0系が代走した。 なお、当編成は0系37・38次車よりも先に落成している。反対に、100系の最終増備編成であるG46編成は300系の量産車第1号であるJ2編成より後に落成したが、G46編成の方が先に廃車になった。
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試作車(コキ5000,コキ5001)
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「国鉄コキ5500形貨車」の記事における「試作車(コキ5000,コキ5001)」の解説
1959年(昭和34年)3月に汽車製造でチキ5000形として落成した。一般の長物車と同様の全面板張りの床板や、下側が台形状に狭まった台枠側面の補強材形状など、特有の形態を有する。ブレーキ装置は AD 方式(積空手動切替式自動空気ブレーキ)と UC 型積空ブレーキを併用する。車端部には留置専用の手ブレーキが設置されるが、デッキ・手すりはない。台車は 85 km/h 走行用に開発された TR91 形である。コンテナ緊締装置はチキ5000に東急式、チキ5001に富士重式を搭載。また、5001は当初塗色が黒とされていた。 同時に試作された5tコンテナ(5000形)と共に同年6月から試験運用に供され、同年11月5日からコンテナ専用列車「たから号」に量産車と共に充当された。 1965年(昭和40年)にコキ5000形(コキ5000, コキ5001)に改称され、1967年(昭和42年)のデッキ取付改造によりコキ5500形(コキ6714, コキ6715)に編入された。
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試作車 (BR103.0)
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「西ドイツ国鉄103型電気機関車」の記事における「試作車 (BR103.0)」の解説
西ドイツ国鉄では1960年代に入り、特急列車 (TEE, F-Zug) の最高速度200 km/h 運転を計画し、そのための線路の改良や新型機関車の製造などの準備を行った(航空網への対抗、あるいは、日本の新幹線に刺激されたとも言われている)。その際、200 km/h 運転対応の電気機関車として製造されたのが本機である。 それまでの特急旅客用電気機関車としては、最高速度160 km/h 運転に対応したE10.12型(後の112型→113型)が運用されていたが、103型はこれの後継機となるものである。 1965年にまずE03型 (E03 001 - E03 004) として、試作車4両が製造された。 車体は全体的に丸味を帯びた流線型車体で、高速性が強調されるデザインとなった。また、塗色は基本的にTEE用客車と同じく、えんじ色とクリーム色の通称「TEE色 (rot-beige)」であり、TEEを始めとした特急牽引機であることを強く印象付けるものとなった。 登場して間もなく、当時ミュンヘンで開催されていた交通博覧会のデモンストレーション的な位置付けで、ヨーロッパでは最初となる最高速度200 km/h の営業運転をミュンヘン - アウクスブルク間で行う。本格的な200 km/h 営業運転としては、1968年からTEE「ブラウエル・エンツィアン」号で行われた。 なお、1968年より、「コンピューターナンバー」と呼ばれる新しい車両番号体系が制定されたことに伴い、E03型は103型 (103 001 - 103 004) と改称されている。量産車(後述)の登場後は103.0型と呼ばれるようになった。
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試作車(900番台)
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「国鉄201系電車」の記事における「試作車(900番台)」の解説
国鉄初の電機子チョッパ制御を採用した新系列車両の先行試作車として、昭和52年度第2次債務で1979年に5両編成2本の10両が製造された。車両番号は900番台に区分され、クハ201-901ほか5両編成が東急車輛製造製、クハ201-902ほか5両編成が日本車輌製造製となっている。当初の配置は三鷹電車区(現・三鷹車両センター)であった。 1979年より試運転が開始されるとともに、同年5月13日には原宿駅の宮廷ホームで展示会が行われた。1979年8月20日に中央快速線で営業運転が開始され、正面には「省エネ201」のヘッドマークも掲出された。編成は中央快速線での営業運転開始前に当時の101系・103系と同じ3両+7両編成に組成変更され、1983年の量産化改造で当時の201系量産車と同じ6両+4両編成に組成変更された。 車体は外板材質は熱間圧延軟鋼板 SPHC を引き続き採用し、塩化ビニール製絶縁屋根布を張り付けている。客用窓は下段上昇・上段下降式の外はめ式ユニット窓が採用され、上段窓にバランサーが取付られた。客用扉窓、戸袋窓など固定窓のガラス支持は、Hゴムを廃して押え金方式を採用している。車両番号標記は特急形車両と同様のステンレス製切り抜き文字が採用された。 車内は冷房装置搭載を前提として構成の見直しが行われ、天井構造は平天井となった。外部屋根のカーブ形状も見直され、103系と比較して緩いものとされた。 冷房装置は集中式のAU75系が採用され、当時落成していた103系用と同型のAU75B形を1基搭載する。冷気は平屋根構造の車内風洞を介して車内に送り込み、三菱電機製「ラインデリア」(横流補助送風機)によって扇風機なしでもまんべんなく車内に行き渡る構造とした。換気用通風器はグローブ形に代わり、FRP製の角形押し込み式が採用されている。 台車はダイレクトマウント(車体直結)式の空気バネ台車で、東急製の901編成にDT46X・TR231Xが、日車製の902編成にDT46Y・TR231Yが採用された。 回生ブレーキ時の離線対策も考慮して、試作車ではPS21形パンタグラフが各電動車1ユニット(2両)につき2基ずつ搭載された。 1983年に量産化改造が行われ、組成変更や電装解除などが行われた。国鉄末期には中央快速線から中央・総武緩行線に転用された。 1990年より首都圏各線区でATS-Pが本格導入され、201系にも関連機器の設置改造が行われたが、試作車はクモハ200形の床下の空きスペースが小さく、クハも含めてATS-Pの搭載は見送られた。試作車は量産車編成の中間に組み込まれ、営業線では先頭に立たなくなった。 中央・総武緩行線からの撤退後は京葉線に転用されたが、老朽化のため2005年11月に廃車となった。 試作車落成時の編成表 ← 東京 青梅・高尾・大月 → 号車1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 形式 クハ201-901(Tc) ◇モハ201-901(M) モハ200-901(M') ◇モハ201-902(M) クモハ200-901(Mc') クハ201-902(Tc) ◇モハ201-903(M) モハ200-902(M') ◇モハ201-904(M) クモハ200-902(Mc')
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試作車(7501→7500)
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「ブリュッセル首都圏交通T7700形電車」の記事における「試作車(7501→7500)」の解説
第二次世界大戦以前から、ブリュッセルの路面電車では輸送力を確保するため電動車が付随車を牽引する連結運転が実施されていた。だがこれらの車両の老朽化が進んだ事に加え、双方の車両間の往来が不可能なため両車に車掌を配置する必要があり、人件費も課題となっていた。そこでブリュッセル首都圏交通は、1951年からアメリカの高性能路面電車であるPCCカーの技術を用いT7000形の製造を実施していたBN(英語版)(La Brugeoise et Nivelles)やACEC(Ateliers de Constructions Electriques de Charleroi)と共同で、2両編成の旧型電車と同等の輸送力を有する連接車の開発に取り掛かり、1962年に試作車となる7501が製造された。 編成は片運転台式の2車体連接車で、3台のボギー台車のうち連接部分に設置された1台は主電動機が搭載されていない付随台車で、残りの2台の主電動機はT7000形と同じ性能を有していた。だが車両が重かった事、ブリュッセルの路面電車の勾配が急であった事から加速度に難があった。 1970年に7500へ改番された後、1974年に付随台車の動力台車への交換や電気機器の強化などの改造が実施され、走行性能が向上した。車体についても後方に乗降扉が追加された。それ以降は後述する量産車と共に使用されたが、1979年以降片運転台車両が両運転台に改造される中で7500だけは原型の片運転台式のまま残り、2010年まで営業運転に使用された。以降はブリュッセル路面電車博物館(英語版)で保存されている。 7500(1980年撮影)
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「試作車」の例文・使い方・用例・文例
- 1月29日,新幹線の新型車両の試作車が報道陣に公開された。
- 3月4日と5日,東京でそのような自転車の試作車に試乗する場が提供された。
- パブリカスポーツは50年前にトヨタによって開発された試作車だった。
- 11月22日,東海旅客鉄道(JR東海)は,山梨県都(つ)留(る)市(し)にある同社のリニア施設でリニアモーターカーの新型車両,L0(エルゼロ)系の試作車を公開した。
- 米国のIT大手のグーグルは先日,自動運転車の試作車を発表した。
- 2人乗りの試作車は完全な自動運転車である。
- この試作車の最高速度は時速約40キロである。
- グーグルの広報担当者によると,この試作車の開発はまだ極めて初期の段階にあるという。
- 東海旅客鉄道(JR東海)は自社のリニアモーターカーの試作車が世界新記録を樹立したと先日発表した。
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