0系
0系
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東海道新幹線では1999年9月18日まで、山陽新幹線では2008年11月30日まで使用された。 0系は、1964年10月1日の東海道新幹線開業当初から運用開始。当初は12両編成で運行していたが、その後16両編成化されたものの、再び12両化(S編成)されたのち、東海道新幹線区間では1989年に16両編成化(Y編成)された。Y編成は指定席車となる9 - 12号車の4両を2+2の4列シートに改造して運用していた。1999年9月18日の「こだま」473号(東京 → 名古屋間)の運行をもって東海道新幹線からは撤退した。 山陽新幹線においては、当初は東海道新幹線と共通運用で12両編成または16両編成で運行されたが、1985年6月に独自の6両編成(R編成)が投入され、その後は4両の短縮編成(Q編成、広島以西限定)も運用された。末期は、2+2の4列シート(旧ウエストひかり普通席用)を使用したWR編成が用いられていた。 11月30日の「こだま」659号(岡山 → 博多間)の運行をもって新幹線の定期運行から撤退、全車引退した。 東海道「こだま」専用編成は原則的に山陽新幹線内に乗り入れないものとされたため、一部の編成には岡山以西の換気方式に対応しない車両が組み込まれていた。当該編成では識別のため、本来の編成番号に50を足していた。 0系16両編成(YK編成) 0系4両編成(Q4編成)山陽新幹線内では輸送需要に合わせ、短縮編成が組成された。
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「長野電鉄0系・10系電車」の記事における「0系」の解説
第7回(1967年)ローレル賞受賞車両 ■カテゴリ / ■テンプレート 0系は、単線区間が介在することによって車両編成や運転本数に制限のあるラッシュ輸送に対応する目的で、20m級車体と片側4箇所の乗降扉を採用した車両として1966年に2両編成2本の計4両が日本車輌製造で製造された。 系列名には、木造旧型車の淘汰が進んだことで空き番となっていた100未満の数字が用いられ、制御電動車がモハ0形、制御車がクハ50形とされた。 日本で初めてFRPを車両正面の全面に採用した車両であり、地方私鉄として積極的なラッシュ対策を施したことが合わせて評価され、1967年(昭和42年)度鉄道友の会ローレル賞を受賞した。 車体は、長さが19,500mm(連結器間20,000mm)、幅が2,740mm。客用扉は、1,300mmの両開扉を片側につき4か所備えるが、運転台直後にも側窓と座席を配置している。これは運転室直後の換気を良くすることをねらったものであり、他社では相模鉄道旧6000系や近畿日本鉄道、南海電気鉄道の通勤車などにもみられ、側面の窓配置は相鉄旧6000系に類似している。座席はロングシートを採用し、定員は160名。うち座席定員は54名であり、ドア脇いっぱいまで座席を配置することで通勤通学利用客以外への着席サービス向上も図っている。 赤2号とクリーム4号による塗り分けは警戒色の意味も兼ねて本系列にあわせてデザインされ、在来車にもおよんでいく。FRP製の前面は、踏切破損の防止のため前照灯、尾灯、方向幕を上部にまとめている。方向幕は種別表示と行き先表示を上下二段で表示する。ここには当時としては珍しい「各駅停車」表示もされたが、これは同社の1100形の登場時、特急と勘違いする旅客が存在した事例を受けて用意されたものである。行先には分割運転を見越して「湯田中・木島」の表示を第一編成登場時から備えていたほか、側面にも電動で操作できる行先・種別幕を装備する。これは当時まだ他に国鉄481系くらいしか類例のない先進的な設備であった。 台車は、枕ばねがオイルダンパ併用のインダイレクトマウント式コイルばね、軸箱支持はペデスタル式であり、密封ころ軸受けを採用した。台車形式はNA-18形およびNA-18A形(モハ0)、NA-18T形およびNA-18AT形(クハ50、いずれも日本車輌製造における形式)であり、前者が車輪径910mmであるのに対し、後者は車輪径860mmであった。電動車(モハ)の動輪径が大きいのは、当時狭軌最大級であった135kWの主電動機を装架し、なおかつWN継手を採用するためである(長野電鉄2000系電車#狭軌用WN駆動装置も参照)。 朝ラッシュ時間帯には2編成を併結した4両編成での運用を行うため、先頭部には回り子式密着連結器を装備していたが、2500系導入後は密着自動連結器に交換された。4両編成運用自体についても2500系導入後は同系に置き換えられている。 20m4扉構造が採用された背景として、長野電鉄沿線には各種の学校が立地し、長野側都心エリアだけでなく途中駅での乗降が錯綜することがあった。観光輸送も考慮した座席数の多い2扉車では、19m級車体を備えるモハ1100形・クハ1150形の3両編成をもってしても乗降時間の延びによる遅延が多発し、特に冬季の乗降遅延は緊急の改善が必要とされたためである。さらに、2両編成で在来車3両編成の収容力を持たせる事で、全体の車両数削減を狙った。大型4扉車であるため、冬季車内保温のための中央2扉の締め切り装置と、一部ホーム延長の短い駅でのドアカットに対応するための最後部車両の扉締め切り装置を備えている。 主目的の通勤通学対応もさることながら、山の内線の急勾配区間の走行を配慮した大出力主電動機を採用していたことから、長野電鉄全線で幅広く運用された。特に、朝ラッシュ時間帯は2本を連結した4両編成とし、線内最大輸送力列車として運行された。構想として数年のうちに5編成を導入し、乗務員を含めた運用効率の向上を図る事としていたが、以後の増備は利用客の減少に伴い中止された。 後述の10系導入後は「OS1」とも呼ばれた。 最終的には主に長野 - 湯田中(須坂・信州中野)間で運用されたが、ワンマン運転対応改造が難しく、発電ブレーキを装備していないなどの運転上の制約もあり、長野オリンピックを目前に控えた1997年(平成9年)、3500系に置き換えられる形で廃車された。 廃車後、しばらくはモハ1 - クハ51の編成が静態保存を前提として須坂駅構内に留置されていたが、2002年に解体処分されたため現存しない。
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「RAIL WARS! -日本國有鉄道公安隊-」の記事における「0系」の解説
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詳細は「新幹線0系電車」を参照 1964年(昭和39年)の東海道新幹線開業時に国鉄が投入した車両で、1986年(昭和61年)までの20年以上にわたって3,216両が製造された。このため、製造年度によって様々な仕様がある。登場時の最高速度は210 km/h。1986年(昭和61年)11月1日、100系に合わせ220 km/hに引き上げられた。 全電動車方式を採用し、2両単位で編成を増減することが可能である。普通車・グリーン車のほか、ビュフェや食堂車などの供食サービスを行う車両を組み込み、12両ないし16両編成で増備が進められた。 またトンネルが多くなったことにより、車内気圧変動対策で換気を遮断する回数が増えるため、後から開業した岡山駅以西では連続換気方式が採用された。そのため、1973年(昭和48年)以前に製造された0系車両を組み込んだ編成は岡山駅以西への乗り入れができなかった。東海道「こだま」用編成のS編成やY編成では、岡山以西乗り入れ禁止編成を識別するため、編成番号を本来の編成番号+50としていた。 東海道新幹線に比べ輸送規模の小さい山陽新幹線では需要に合わせた短編成化も実施された。国鉄末期の1985年(昭和60年)には山陽新幹線内の「こだま」用として普通車のみの6両編成が登場。JR西日本となってからは、座席を一列4人掛けとするなどの車内改良を実施した6・8・12両の「ウエストひかり」も登場した。晩年は4両編成も加わり、2008年(平成20年)までもっぱら「こだま」に用いられた。
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1964年10月1日の開業以来使用されてきた車両。JR東海には1,339両(「ひかり」用16両編成53本、「こだま」用12両編成38本、保留車35両)が承継された。最高速度は220 km/hに引き上げられていた。
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開業時から充当の第一世代車両である。短編成化され山陽新幹線のみの運転(「ウエストひかり」など)となった時期もあった。1964年10月1日の「ひかり」1号・2号(東京 - 新大阪間)で運用を開始し、2000年4月21日の「ひかり」359号(SK9編成充当「ウエストひかり」新大阪 → 博多間)をもって定期運用から撤退した。その後、2008年12月14日の「ひかり」347号(新大阪 → 博多間)をもって臨時運用から撤退して運用を終了した。
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0系
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東海道新幹線が運行を開始した当初は、全ての編成が同じ組成だったため、車両を製造したメーカー名のアルファベットと数字を組み合わせたメーカー別の編成記号を使用していた。当時使用されていたのは、日本車輌製造製…N(Nippon)編成、汽車会社製…K(Kisha)編成、川崎車輛製…R(River)編成、近畿車輛製…S(Short)編成、日立製作所製…H(Hitachi)編成であった。また1966年6月の6次車の製造から東急車輛製造製…T(Tokyu)編成が加わった。 1966年10月1日以降、「ひかり」「こだま」が別の組成となり、その後1969年より順次実施された16両編成化後も、しばらくはメーカー別の編成記号であった(ただし、16両編成に増結した編成は編成番号の末尾にAを付け、N4Aなどと呼称されていた)が、1972年3月15日の山陽新幹線岡山開業に合わせ、「ひかり」編成をH(Hikari)編成、「こだま」16両編成をK(Kodama)編成、「こだま」12両編成をS(Short)編成とする方式に変更された一方で、16両編成に暫定的に付与されていたAは消滅した。S編成は「こだま」を16両編成に揃えるまでの暫定的な編成名との位置づけのため、すぐに消滅した。 1976年以降、0系1000番台(以下「小窓車」と表記)では小窓化や身障者対応設備新設など、大幅な仕様変更が図られることになったため、小窓車だけで組成された「ひかり編成」をN(New)編成、在来車と小窓車が混在している「ひかり」編成をNH(New Hikari)編成に変更することになった。なお、1979年以降には「こだま」編成でも小窓車への置き換えが開始されたが、この際には先頭車を置き換えた場合は編成記号に50を加算し、中間車置き換えの場合は編成記号はそのままで対応していた。 1985年3月14日ダイヤ改正では「こだま」編成が12両編成となり、S編成が復活した。具体的には編成記号は先頭車が小窓車の場合にはSK(Short Kodama)編成、先頭車が大窓車の場合はS(Short)編成に変更された。同年6月からは、山陽新幹線小倉 - 博多間専用の編成として6両編成が登場したが、既にShortの頭文字を使っていたため、R(Rokuryo)編成となっている。このR編成の運用区間はのちに山陽新幹線全区間に広がった。 1987年4月に日本国有鉄道(国鉄)の分割民営化により、東海道新幹線は東海旅客鉄道(JR東海)に、山陽新幹線は西日本旅客鉄道(JR西日本)にそれぞれ引き継がれたが、編成記号もそのまま引き継がれることになった。 1989年から、JR東海所有の「こだま」編成の16両編成化を実施することになり、S編成を16両化したものはY編成、SK編成を16両化したものはYK編成に変更された。 一方、JR西日本では「ウエストひかり」を新設。6両編成の「ウエストひかり」編成はWR(West Rokuryo)、12両編成の「ウエストひかり」編成はシネマカーのない編成がWK(West Kodama)編成、シネマカー組込編成がWKV(VはVideoから)となった。ただし、これらの編成記号はWR編成はR編成の50番台で、WK・WKV編成はSK編成で表記されていた。後にWKV編成はWK編成に組成変更され、WKV編成は消滅した。 1997年には、JR西日本の0系に4両編成が登場、Q(Quarter(クォーター)・4分の1(16両の4分の1なので))編成となった。 1999年9月18日をもって0系の東海道新幹線での定期運用が終了。これに伴い0系の16両編成が消滅。 2000年に「ウエストひかり」の運用離脱に伴いに登場した、SK編成(WK編成)を6両に組成変更した「こだま」用のWR編成はR編成の60番台で表記された。 2001年10月にQ編成が消滅。 2008年11月30日をもって最後まで残ったR編成3本 (R61, R67, R68) が定期運転を終了、12月14日のさよなら運転をもって0系の営業運転は全て終了した。 0系 編成記号一覧記号編成番号所属事業者両数最高時速運用状況備考HH1 - H16国鉄 12→16 210 1964年 - 1972年 日立製作所製 H1 - H96国鉄JR東海・JR西日本 16 210→220 1972年 - 1997年 「ひかり」編成。食堂車連結。大窓車のみ NN1 -N16国鉄 12→16 210 1964年 - 1972年 日本車輌製 N97 - N99国鉄JR東海・JR西日本 16 210→220 1976年 - 1992年 「ひかり」編成。食堂車連結。小窓車のみ NHNH1 - NH40,NH43,NH46,NH48,NH49,NH54,NH61,NH67,NH82,NH88,NH97,NH99国鉄JR東海・JR西日本 16 210→220 1976年 - 1999年 「ひかり」編成。食堂車連結。大窓車・小窓車混結 KK1 - K16国鉄 12→16 210 1964年 - 1972年 汽車会社製 K1 - K47,K51 - K54,K56,K58,K59,K65,K75 - K78,K82,K83,K85 - K88,K90国鉄 16 210→220 1972年 - 1985年 「こだま」編成。ビュフェ車連結。K51編成以降は先頭車が小窓 TT11 - T15国鉄 12→16 210 1967年 - 1972年 東急車輛製 SS1 - S16国鉄 12→16 210 1964年 - 1972年 近畿車輛製 S1 - S47,S73 - S78,S80,S81,S86,S88,S93 - S95,S98国鉄・JR東海 12 210→220 1972年,1973年1984年 - 1991年 「こだま」編成。ビュフェ車連結 SKSK2,SK4 - SK14,SK16 - SK21,SK26,SK27,SK32,SK33,SK44,SK57,SK58,SK70,SK78,SK79,SK82 - SK85,SK87,SK89 - SK93,SK96,SK97,SK99国鉄JR東海・JR西日本 12 210→220 1984年 - 1991年 「こだま」12両編成。ビュフェ車連結。先頭車が小窓 SK5,SK10,SK17,SK19,SK25,SK46JR西日本 12 220 1988年 - 2000年 「ウエストひかり」12両編成。ビュフェ車連結。2列+2列シート。WK編成とも呼称される SK19,SK25JR西日本 12 220 1988年 - 1994年 「ウエストひかり」12両編成。ビュフェ車・シネマカー連結。2列+2列シート。WKV編成とも呼称される YY1,Y15,Y22 - Y24,Y28,Y29,Y36,Y45,Y73,Y80JR東海 16 220 1989年 - 1996年 「こだま」16両編成。ビュフェ車連結 YKYK2 - YK4,YK6 - YK9,YK11 - YK16,YK18,YK20 - YK22,YK24,YK26 - YK45,YK49,YK57,YK58,YK70,YK81,YK87,YK89 - YK93,YK99JR東海 16 220 1989年 - 1999年 「こだま」16両編成。ビュフェ車連結。先頭車が小窓 RR1 - R16国鉄 12→16 210 1964年 - 1972年 川崎車輛製 R1 - R31国鉄・JR西日本 6 210→220 1985年 - 2005年 「こだま」6両編成 R51 - R54JR西日本 6 220 1988年 - 1994年 「ウエストひかり」6両編成。ビュフェ車連結。2列+2列シート。WR編成とも呼称される R51 - R53JR西日本 4 220 1997年 「こだま」4両編成。1997年末にQ編成に改名 R61 - R68JR西日本 6 220 2000年 - 2008年 「こだま」6両編成。一部ビュフェ車連結。2列+2列シート。白/青からフレッシュグリーン色に塗色変更。最後まで残ったR61,R67,R68の3編成は2008年4月以降順次白/青カラーに復元。WR編成とも呼称される QQ1 - Q6JR西日本 4 220 1997年 - 2001年 「こだま」4両編成
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0系
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東海道・山陽新幹線の初代車両。東海道新幹線開業時から1986年まで、38次のマイナーチェンジを重ねながら延べ3,216両が製造された。このため、製造年度によって様々な仕様がある。登場時の最高速度は210 km/hだが、後に100系に合わせ220 km/hに引き上げられた。
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0系
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詳細は「新幹線0系電車」を参照 1964年(昭和39年)の開業時に国鉄が投入した車両である。1986年(昭和61年)までの20年以上にわたって3,000両あまりが製造され、製造年度によってさまざまな仕様がある。登場時の最高速度は210 km/hであったが、1986年(昭和61年)11月1日のダイヤ改正から100系に合わせ220 km/hに引き上げられた。 全電動車方式を採用し、普通車・グリーン車のほか、ビュフェと称する軽食サービスを提供する車両を組み込み、12両編成で登場した。その後1970年(昭和45年)の大阪万博輸送に対応するため16両編成が登場。1975年(昭和50年)には、山陽新幹線全線開業に合わせ、食堂車が組み込まれた。 晩年はもっぱら「こだま」に用いられ、指定席を一列4人掛けとするなどの車内改良が実施された。1999年(平成11年)に後継車両への置き換えに伴い東海道新幹線での営業運転を終了。
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0系
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第7回(1967年)ローレル賞受賞車両 0系は、単線区間が介在することによって車両編成や運転本数に制限のあるラッシュ輸送に対応する目的で、20m級車体と片側4箇所の乗降扉を採用した車両として1966年に2両編成2本の計4両が日本車輌製造で製造された。製造経緯から、Officemen & Students Carの頭文字を取り、OSカーの愛称があった。 系列名には、木造旧型車の淘汰が進んだことで空き番となっていた100未満の数字が用いられ、制御電動車がモハ0形、制御車がクハ50形とされた。 日本で初めてFRPを車両正面の全面に採用した車両であり、地方私鉄として積極的なラッシュ対策を施したことが合わせて評価され、1967年(昭和42年)度鉄道友の会ローレル賞を受賞した。 車体は、長さが19,500mm(連結器間20,000mm)、幅が2,740mm。客用扉は、1,300mmの両開扉を片側につき4か所備えるが、運転台直後にも側窓と座席を配置している。これは運転室直後の換気を良くすることをねらったものであり、他社では相模鉄道旧6000系や近畿日本鉄道、南海電気鉄道の通勤車などにもみられ、側面の窓配置は相鉄旧6000系に類似している。座席はロングシートを採用し、定員は160名。うち座席定員は54名であり、ドア脇いっぱいまで座席を配置することで通勤通学利用客以外への着席サービス向上も図っている。 赤2号とクリーム4号による塗り分けは警戒色の意味も兼ねて本系列にあわせてデザインされ、在来車にもおよんでいく。FRP製の前面は、踏切破損の防止のため前照灯、尾灯、方向幕を上部にまとめている。方向幕は種別表示と行き先表示を上下二段で表示する。ここには当時としては珍しい「各駅停車」表示もされたが、これは同社の1100形の登場時、特急と勘違いする旅客が存在した事例を受けて用意されたものである。行先には分割運転を見越して「湯田中・木島」の表示を第一編成登場時から備えていたほか、側面にも電動で操作できる行先・種別幕を装備する。これは当時まだ他に国鉄481系くらいしか類例のない先進的な設備であった。 台車は、枕ばねがオイルダンパ併用のインダイレクトマウント式コイルばね、軸箱支持はペデスタル式であり、密封ころ軸受けを採用した。台車形式はNA-18形およびNA-18A形(モハ0)、NA-18T形およびNA-18AT形(クハ50、いずれも日本車輌製造における形式)であり、前者が車輪径910mmであるのに対し、後者は車輪径860mmであった。主電動機は三菱電機製のMB-3068-A型が各電動台車に2基ずつ搭載され、出力は当時狭軌最大級であった135kWとされた。駆動方式はWN継手が採用され、歯車比は92:15 =1:6.13に設定されている。(長野電鉄2000系電車#狭軌用WN駆動装置も参照)。制御装置は三菱電機製のABFM-184-15MHがモハに一基搭載された。 朝ラッシュ時間帯には2編成を併結した4両編成での運用を行うため、先頭部には回り子式密着連結器を装備していたが、2500系導入後は密着自動連結器に交換された。4両編成運用自体についても2500系導入後は同系に置き換えられている。 20m4扉構造が採用された背景として、長野電鉄沿線には各種の学校が立地し、長野側都心エリアだけでなく途中駅での乗降が錯綜することがあった。観光輸送も考慮した座席数の多い2扉車では、19m級車体を備えるモハ1100形・クハ1150形の3両編成をもってしても乗降時間の延びによる遅延が多発し、特に冬季の乗降遅延は緊急の改善が必要とされたためである。さらに、2両編成で在来車3両編成の収容力を持たせる事で、全体の車両数削減を狙った。大型4扉車であるため、冬季車内保温のための中央2扉の締め切り装置と、一部ホーム延長の短い駅でのドアカットに対応するための最後部車両の扉締め切り装置を備えている。 主目的の通勤通学対応もさることながら、山の内線の急勾配区間の走行を配慮した大出力主電動機を採用していたことから、長野電鉄全線で幅広く運用された。特に、朝ラッシュ時間帯は2本を連結した4両編成とし、線内最大輸送力列車として運行された。構想として数年のうちに5編成を導入し、乗務員を含めた運用効率の向上を図る事としていたが、以後の増備は利用客の減少に伴い中止された。 後述の10系導入後は「OS1」とも呼ばれた。 最終的には主に長野 - 湯田中(須坂・信州中野)間で運用されたが、ワンマン運転対応改造が難しく、発電ブレーキを装備していないなどの運転上の制約もあり、長野オリンピックを目前に控えた1997年(平成9年)、3500系に置き換えられる形で廃車された。 廃車後、しばらくはモハ1 - クハ51の編成が静態保存を前提として須坂駅構内に留置されていたが、2002年に解体処分されたため現存しない。
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「0系」の例文・使い方・用例・文例
- 700系新幹線は流線型で環境にも配慮している。
- この700系は台湾に輸出され,タイペイ(台北)とカオシュン(高雄)の間を1時間半で走ることになっている。
- 2007年には,新型のN700系が導入される。
- N700系というその新型車両は,東海旅客鉄道(JR東海)と西日本旅客鉄道 (JR西日本)によって共同で開発された。
- N700系は最速の新幹線車両となる。
- N700系を開発するために最新の技術が集められた。
- これらの特徴は,N700系がエネルギーを節約するのを助けている。
- 2年間の試運転の後,N700系は2007年春に東海道・山陽新幹線で運行を開始する予定だ。
- 明治時代に使用された1号機関車から1980年代に造られた200系新幹線まで,35台の車両が日本の鉄道の135年の歴史を示している。
- 日本旅行は,0系から最新のN700系まで6種類の新幹線に乗車するツアーを売り出した。
- L0系の先頭車両は長さ28メートル,幅2.9メートル,高さ3.1メートルで,乗客用の座席が24席ある。
- JR東海は2027年に東京-名古屋間でL0系の運行を開始する予定だ。
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