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ソ連崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/17 07:51 UTC 版)
| ソビエト連邦 |
|---|
| 最高指導者 |
| レーニン · スターリン マレンコフ · フルシチョフ ブレジネフ · アンドロポフ チェルネンコ · ゴルバチョフ |
| 標章 |
| ソビエト連邦の国旗 ソビエト連邦の国章 ソビエト連邦の国歌 鎌と槌 |
| 政治 |
| ボリシェビキ · メンシェビキ ソビエト連邦共産党 · 最高会議 チェーカー · ゲーペーウー ソ連国家保安委員会 |
| 軍事 |
| 赤軍 · ソビエト連邦軍 ソビエト連邦陸軍 · ソビエト連邦海軍 ソビエト連邦空軍 · ソビエト連邦防空軍 戦略ロケット軍 |
| 場所 |
| モスクワ · レニングラード クレムリン · 赤の広場 |
| イデオロギー |
| 共産主義 · 社会主義 マルクス・レーニン主義 スターリン主義 |
| 歴史 |
| ロシア革命 · ロシア内戦 · 大粛清 第二次世界大戦 · 独ソ戦 · バルト諸国占領 冷戦 · 中ソ対立 · キューバ危機 ベトナム戦争 · 中ソ国境紛争 アフガニスタン紛争 · ペレストロイカ マルタ会談 · 8月クーデター ソ連崩壊 |
ソ連崩壊(ソれんほうかい、露: Распад СССР)とは、1991年12月25日にソビエト連邦(ソ連)大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、これを受けて各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦が解体された出来事である。
目次 |
概要
1917年11月7日のロシア革命(十月革命)により成立したソビエト連邦は、第二次世界大戦後にはアメリカ合衆国に伍する超大国として君臨したが、74年後の1991年12月25日に崩壊した。同日、ソビエト連邦に比して規模が小さいロシア連邦が成立した。
- ソビエト連邦がCISに取って代わられ、その国家格を失った。
- ロシアの歴史を見ても、ソビエト連邦共産党による寡頭政治国家であるソビエト連邦が崩壊し、大統領制国家であるロシア連邦が成立した。
- 冷戦時代に東側諸国の総本山として君臨したソビエト連邦が崩壊したことにより、アメリカ合衆国が名実共に唯一の超大国となった。またそれに伴い、アメリカ合衆国による単独覇権の時代が本格的に始まった。
- 核兵器という究極兵器を持つ国家が、軍事的に衰弱しないまま崩壊した。それまで世界最強の軍事国家が崩壊するなど考えられなかった出来事であり、これは国際政治学でのパワーポリティックス(現実主義)への批判を招いた。(ハード・パワーからソフト・パワーへの移行)
ソビエト連邦の崩壊は、これら四つの意味を持つ大事件である。
前史
ロシア革命後のロシア内戦や諸外国の干渉戦争を勝ち抜いて1922年12月30日に正式発足したソビエト連邦は、1920年代後半からヨシフ・スターリンによる独裁体制が成立し、急速な工業化が進んだ。第二次世界大戦では独ソ戦(大祖国戦争)に勝利してバルト三国などの併合や東ヨーロッパ諸国の衛星国化を実現させ、東側陣営の中心としてアメリカと世界を二分する超大国となった。しかし、大粛清に象徴される一般国民の大量処刑・追放、領土併合や集団強制移住による強圧的な民族政策など、後にスターリニズムと呼ばれる強権統治に対して、ソ連国民の不満や恐怖は根深く浸透していた。
1953年にソビエト連邦共産党の党第一書記に就任し、1956年2月、共産党第20回党大会にてスターリン批判を行ったニキータ・フルシチョフは、社会主義の範囲での自由化・民主化を進めようとした。しかし党官僚の抵抗に遭い、1964年に失脚。後を継いだ党官僚出身のレオニード・ブレジネフの時代は、退歩がない代わりに進歩もない停滞の時代と呼ばれ、党官僚の特権化や物資不足が進み、対米関係でも1970年代前半の緊張緩和が1979年のアフガニスタン軍事介入により終焉し、新冷戦へと逆行した。さらにこの時代、コンピュータに象徴される西側諸国での技術革新の進展にソ連は対抗できず、東西間の経済格差は大きく広がった。
ペレストロイカと東欧民主化革命
1982年にブレジネフが死去した後のソ連は、ユーリ・アンドロポフ、コンスタンティン・チェルネンコと高齢で病身の指導者による短命政権が続く。アンドロポフは綱紀粛正によるソ連社会の立て直しを構想していたが着手できず、ソ連の混迷は更に深まった。
1985年3月、ソ連共産党書記長に選出されたゴルバチョフは、フルシチョフの失脚以来封印されていたソ連型社会主義の範囲での自由化・民主化に再着手した(ペレストロイカ)。それまで秘密のベールに包まれていたソ連共産党中央委員会にテレビジョンカメラを入れ、会議の模様を全国中継するなど、情報公開(グラスノスチ)も推進した。しかし、1986年4月に起きたチェルノブイリ原子力発電所事故を、西側に指摘されるまで官僚が隠蔽するなど、改革の不充分さも露呈した。この後、ペレストロイカは速度を上げることとなった。
ゴルバチョフによるペレストロイカは外交面でも2つの新機軸を打ち出した。一つが冷戦による緊張を緩和する新思考外交、そしてもう一つが東ヨーロッパの衛星国に対してのソビエト連邦及びソ連共産党の指導性の否定(シナトラ・ドクトリン)である。緊張の緩和については、1986年ソビエト連邦軍のアフガニスタンからの撤退を表明。翌年1987年には当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンとの直接会談(レイキャヴィーク会談)を実現させた。この会談では当時アメリカが進めていたSDI計画を巡ってレーガンと対立したが、当時の超大国同士が話し合いによって歩み寄りの姿勢を示すことが世界に対して示された意義は大きい。
シナトラ・ドクトリンに関してはゴルバチョフ就任当初から各国共産党に対して内々に示されていたが、1988年の新ベオグラード宣言の中でこれを明文化し、世界中に対してソビエト連邦が東欧諸国に対する指導制を放棄したことを表明した。こうしたソビエト連邦の変化に対していち早く対応したのがハンガリー人民共和国とポーランド人民共和国で、この2ヶ国はいち早く民主化運動に乗り出し、1989年6月18日にはポーランドで自由選挙が開かれて統一労働者党が敗れて複数政党制が布かれ、ポーランド人民共和国が崩壊した。そして、1989年8月19日にハンガリーで行われた汎ヨーロッパ・ピクニックは、同年11月10日にベルリンの壁を破壊した。
ポーランド人民共和国の崩壊を皮切りに、東欧各国の共産党国家は次々と崩壊し、自由選挙と多党制を布く民主国家が次々と成立した。これら一連の東欧民主化革命に対しても、ゴルバチョフは早急な東西ドイツ統一と、それに伴うNATOの拡大を警戒したのみで、ハンガリー動乱やチェコ事件の時のように、武力による民主化運動の鎮圧という立場を取らなかった。これは、中華人民共和国で1989年6月4日に発生した天安門事件が国際的な非難を浴びたことから、西側諸国からの非難と外圧を恐れて、強硬な措置を取れなかったと考えられる。また、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の指導者だったエーリッヒ・ホーネッカーに対する警告のように、既にゴルバチョフ自身が旧態然とした東欧の指導者達に対し見切りを付けていたという事情もあった[1]。
- ^ ゴルバチョフは10月の建国40周年記念行事で東ドイツを訪問した際、「遅れてくる者は、人生が罰する」と述べ、当時続いていた自国民の西側脱出の阻止や民主化運動の鎮圧に武力行使も辞さなかった東ドイツ指導部を強く牽制した。 ドイツ大使館東京(在日)ホームページ 「ベルリンの壁崩壊20周年記念講演」フォルカー・シュタンツェルより[1]
- ^ 参考文献:小森宏美・橋本伸也『バルト諸国の歴史と現在』(ユーラシア・ブックレット37)p.46。東洋書店、2002年。
- ^ 読売報道写真集1992 107頁
- ^ 朝日新聞 1991年12月26日付夕刊15頁
- ^ 参考図書:高橋保行『迫害下のロシア正教会 無神論国家における正教の70年』教文館、1996年
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