中華民国大総統とは? わかりやすく解説

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中華民国大総統

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/11 02:58 UTC 版)

中華民国大総統(ちゅうかみんこくだいそうとう、繁体字中華民國大總統)は、中華民国初期国家元首の名称。中国語で大総統ないし総統は、大統領を意味する。1947年中華民国憲法施行以降の総統に関しては、中華民国総統の項を参照。




「中華民国大総統」の続きの解説一覧

中華民国大総統 (第1期)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 02:26 UTC 版)

黎元洪」の記事における「中華民国大総統 (第1期)」の解説

黎元洪袁世凱の後を継いで1916年6月7日から1917年7月17日まで大総統務めた。「袁世凱後継者」としてなら北洋軍時代からの側近段祺瑞馮国璋徐世昌大総統を継ぐべきところだが、それでは帝政復活宣言以来反乱まで起こしている梁啓超南方護国系が納得しない。それに北洋軍閥内にも派閥があり、その中の誰が大総統になって北洋軍内にしこりが残る。それならば先ずは国内安定を、と「中華民国後継者」をアピールできる黎元洪大総統昇格させるという、無難といえば無難な人事落ち着く結果となった。もっとも、この人事を決めた北洋軍閥してみれば大総統とは言ってもあくまで傀儡であり政治実権政事堂国務卿が握るものと考えていたが、黎元洪は袁同様に大総統としての権力行使する挙に出るこうした誤算が、大総統府の長である黎元洪国務院の長である段祺瑞政争府院の争い」を招来することとなった。 この争い1917年5月23日黎元洪段祺瑞罷免した事で一応の決着をみた。だが段祺瑞下野したとたん、北洋軍閥系の督軍続々中華民国からの独立宣言した慌てた黎元洪徐州にいた非参戦派の張勲督軍団との仲裁依頼する6月7日張勲の手勢4,300名の兵が入京してくる。北京武力制圧した上で6月8日黎元洪に対して国会解散要求する背に腹は変えられない黎元洪はこれを了承国会解散するのだが、民国期になって辮髪止めないほどの保守派である張勲ここぞとばかりに立憲君主制目指す康有為呼び寄せて7月1日清朝宣統帝復位させてしまう(張勲復辟)。 黎元洪日本公使館避難し7月3日にそこで段祺瑞馮国璋張勲の軍の制圧依頼する7月5日には段祺瑞再度国務総理任命し7日には馮国璋大総統代理任命した表舞台舞い戻った段祺瑞北洋軍閥あっけなく張勲の軍を打ち破り7月12日には北京制圧段祺瑞7月14日悠々と北京入京果たしている。この日のうちに黎元洪日本公使館出て大総統辞職し政治一線から退いた大総統辞職した黎元洪天津に移る。ここで彼は悠々自適隠居しながら、民間事業への投資行って財を成している。

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中華民国大総統 (第2期)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 02:26 UTC 版)

黎元洪」の記事における「中華民国大総統 (第2期)」の解説

1922年6月11日から1923年6月13日まで、黎元洪は再び大総統務める。だが既に前回とは大きく情勢異なっていた。まず1919年直隷派馮国璋病死し直隷派はさらに保定派(曹錕派)と洛陽派(呉佩孚派)に分かれた。さらに1920年7月直皖戦争安徽派段祺瑞失脚し1922年4月奉直戦争奉天派敗北すると、政権直隷派が担うことになった。だが、直隷派単独政権維持するには支持層少なすぎる。そこで直隷派は再び「誰もが反対しない大総統」として黎元洪擁立する事を思いついた。前回経験形式的な大総統職に就くことに難渋している上に隠居生活楽しんでいた黎元洪就任難色示したが、結局は直隷派に廃督裁兵を認めさせる事を条件として1922年6月11日改め大総統就任した再度自ら独自の政策展開できる思ったのも束の間またもや黎元洪政権各派振り回されることになる。 黎元洪目指したのは「平和的な統一による中央集権国家への移行」であり、そのために「廃督裁兵」や「国内各派取り込み」を行おうとした。しかし旧知孫文取り込み当てにした「平和的な統一」は、孫文逮捕状取り下げ閣僚として国民党要員派遣依頼したものの、当の孫文黎元洪前回失脚の後に北京政府と袂を分かち広州国民政府」を樹立しており「広州政府中国唯一の政府であり、黎元洪新しく来た偽総統に過ぎない。もし列強が彼を承認するであれば、それは中国対す内政干渉だ」と内外に対して宣言発表されたことから失敗。「廃督裁兵」も、軍事力を失う各派抵抗やそれらに対抗するだけの軍事力無さ事前に予想していたものの、就任後援した直隷派軍事力後ろ盾にできるだろうと目論んでいた。だが、実際に直隷派北洋軍閥一派であり、当初はこれを受諾した直隷派実行段階になると支援消極的になった。このため、「廃督裁兵」に成功した省は江西省1省のみという結果終わった。またこの時期、何とか名目だけでもと7人の文官を省長として任命するが、各地地元勢の反対に遭ったために実際に着任したのは僅か2人けだった。 更に就任直後から「黎元洪大総統就任直隷派の手よるものであり、民主政治と言う割には大総統選任プロセス中華民国約法に則っていない」という議論沸いた。これに対して黎元洪側は「前回大総統職を離れたのは辞任ではなく張勲による)外的圧力で職を離れただけである。従って今回大総統に『復帰』したのでその任期1年3ヶ月残っている」と反駁したものの、説得力欠け黎元洪求心力低下する。 こうしては就任からわずか1ヶ月の間に軍事力中央集権文官派遣といった黎元洪中央集権化策はことごとく失敗し求心力失った大総統益々直隷派傀儡になっていく。また、傀儡となった黎元洪更なる悩みの種として、直隷派首魁である曹錕呉佩孚仲違い始めた曹錕呉佩孚共に黎元洪には直接意見言ってくるので、黎元洪は「2人傀儡」として双方顔色うかがいながら迷走しなければならなくなった黎元洪迷走そのまま国政迷走であり、その有様黎元洪在任中のわずか1年の間に6回も内閣修正された事でも見て取れる迷走続けた黎元洪は、翌1923年6月半ば直隷派放逐される形で辞職した黎元洪直隷派包囲され自宅こもったり、北京にいられなくなって天津脱出する際も大総統印璽持ち出して天津仮政府設置しようとするなど、ギリギリまで抵抗試みたが、結局印璽天津脱出する途上直隷派奪われてしまった。黎元洪天津イギリス租界逃げ延びた。

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