中華民国大総統
中華民国大総統 (第1期)
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「黎元洪」の記事における「中華民国大総統 (第1期)」の解説
黎元洪は袁世凱の後を継いで1916年6月7日から1917年7月17日まで大総統を務めた。「袁世凱の後継者」としてなら北洋軍時代からの側近の段祺瑞・馮国璋・徐世昌が大総統を継ぐべきところだが、それでは帝政復活宣言以来反乱まで起こしている梁啓超ら南方の護国系が納得しない。それに北洋軍閥内にも派閥があり、その中の誰が大総統になっても北洋軍内にしこりが残る。それならば先ずは国内の安定を、と「中華民国の後継者」をアピールできる黎元洪を大総統に昇格させるという、無難といえば無難な人事で落ち着く結果となった。もっとも、この人事を決めた北洋軍閥にしてみれば、大総統とは言ってもあくまで傀儡であり政治の実権は政事堂国務卿が握るものと考えていたが、黎元洪は袁同様に大総統としての権力を行使する挙に出る。こうした誤算が、大総統府の長である黎元洪と国務院の長である段祺瑞の政争「府院の争い」を招来することとなった。 この争いは1917年5月23日に黎元洪が段祺瑞を罷免した事で一応の決着をみた。だが段祺瑞が下野したとたん、北洋軍閥系の督軍が続々と中華民国からの独立を宣言した。慌てた黎元洪は徐州にいた非参戦派の張勲に督軍団との仲裁を依頼する。6月7日、張勲の手勢4,300名の兵が入京してくる。北京を武力制圧した上で6月8日、黎元洪に対して国会の解散を要求する。背に腹は変えられないと黎元洪はこれを了承、国会を解散するのだが、民国期になっても辮髪を止めないほどの保守派である張勲はここぞとばかりに立憲君主制を目指す康有為を呼び寄せて、7月1日に清朝宣統帝を復位させてしまう(張勲復辟)。 黎元洪は日本公使館に避難し、7月3日にそこで段祺瑞と馮国璋に張勲の軍の制圧を依頼する。7月5日には段祺瑞を再度国務総理に任命し、7日には馮国璋を大総統代理に任命した。表舞台に舞い戻った段祺瑞の北洋軍閥はあっけなく張勲の軍を打ち破り、7月12日には北京を制圧、段祺瑞は7月14日に悠々と北京入京を果たしている。この日のうちに黎元洪は日本公使館を出て大総統を辞職し、政治の一線から退いた。 大総統を辞職した黎元洪は天津に移る。ここで彼は悠々自適に隠居しながら、民間事業への投資を行って財を成している。
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中華民国大総統 (第2期)
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「黎元洪」の記事における「中華民国大総統 (第2期)」の解説
1922年6月11日から1923年6月13日まで、黎元洪は再び大総統を務める。だが既に前回とは大きく情勢が異なっていた。まず1919年に直隷派の馮国璋が病死し、直隷派はさらに保定派(曹錕派)と洛陽派(呉佩孚派)に分かれた。さらに1920年7月の直皖戦争で安徽派の段祺瑞は失脚し、1922年4月の奉直戦争で奉天派が敗北すると、政権は直隷派が担うことになった。だが、直隷派単独で政権を維持するには支持層が少なすぎる。そこで直隷派は再び「誰もが反対しない大総統」として黎元洪を擁立する事を思いついた。前回の経験で形式的な大総統職に就くことに難渋している上に隠居生活を楽しんでいた黎元洪は就任に難色を示したが、結局は直隷派に廃督裁兵を認めさせる事を条件として1922年6月11日に改めて大総統に就任した。再度自ら独自の政策を展開できると思ったのも束の間、またもや黎元洪の政権は各派に振り回されることになる。 黎元洪が目指したのは「平和的な統一による中央集権国家への移行」であり、そのために「廃督裁兵」や「国内各派の取り込み」を行おうとした。しかし旧知の孫文の取り込みを当てにした「平和的な統一」は、孫文の逮捕状を取り下げ閣僚として国民党の要員の派遣を依頼したものの、当の孫文が黎元洪の前回の失脚の後に北京政府と袂を分かち「広州国民政府」を樹立しており「広州政府が中国唯一の政府であり、黎元洪は新しく来た偽総統に過ぎない。もし列強が彼を承認するのであれば、それは中国に対する内政干渉だ」と内外に対して宣言が発表されたことから失敗。「廃督裁兵」も、軍事力を失う各派の抵抗やそれらに対抗するだけの軍事力の無さは事前に予想していたものの、就任を後援した直隷派の軍事力を後ろ盾にできるだろうと目論んでいた。だが、実際には直隷派も北洋軍閥の一派であり、当初はこれを受諾した直隷派も実行段階になると支援は消極的になった。このため、「廃督裁兵」に成功した省は江西省1省のみという結果に終わった。またこの時期、何とか名目だけでもと7人の文官を省長として任命するが、各地で地元勢の反対に遭ったために実際に着任したのは僅か2人だけだった。 更に就任直後から「黎元洪の大総統就任は直隷派の手によるものであり、民主政治と言う割には大総統選任のプロセスが中華民国約法に則っていない」という議論が沸いた。これに対して黎元洪側は「前回大総統職を離れたのは辞任ではなく(張勲による)外的圧力で職を離れただけである。従って今回大総統に『復帰』したのでその任期は1年3ヶ月残っている」と反駁したものの、説得力に欠け黎元洪の求心力は低下する。 こうしては就任からわずか1ヶ月の間に軍事力の中央集権・文官の派遣といった黎元洪の中央集権化策はことごとく失敗し、求心力を失った大総統は益々直隷派の傀儡になっていく。また、傀儡となった黎元洪の更なる悩みの種として、直隷派の首魁である曹錕と呉佩孚が仲違いを始めた。曹錕・呉佩孚共に黎元洪には直接意見を言ってくるので、黎元洪は「2人の傀儡」として双方の顔色をうかがいながら迷走しなければならなくなった。 黎元洪の迷走はそのまま国政の迷走であり、その有様は黎元洪在任中のわずか1年の間に6回も内閣が修正された事でも見て取れる。迷走を続けた黎元洪は、翌1923年6月に半ば直隷派に放逐される形で辞職した。黎元洪は直隷派に包囲された自宅にこもったり、北京にいられなくなって天津に脱出する際も大総統の印璽を持ち出して天津に仮政府を設置しようとするなど、ギリギリまで抵抗を試みたが、結局印璽は天津に脱出する途上で直隷派に奪われてしまった。黎元洪は天津のイギリス租界に逃げ延びた。
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