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だいうんが 【大運河】

中国東部天津から杭州まで縦貫する水路長さ1700キロメートル。その原形は、隋の煬帝(ようだい)洛陽中心天津杭州とを連結した水路元代済州河(1283年開通)と会通河(1289年開通)が建設され、現在の東寄りコース完成。今も部分的利用

永済渠
通済渠


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京杭大運河

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/09/02 16:10 UTC 版)

(大運河 から転送)

京杭大運河
Modern Course of Grand Canal of China.png
各種表記
繁体字 京杭大運河
簡体字 京杭大运河
拼音 Jīng Háng Dà Yùnhé
発音: ジンハン ダーユンホー
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京杭大運河(けいこうだいうんが)は、中国の北京から杭州までを結ぶ、総延長2500キロメートルに及ぶ大運河である。途中で、黄河揚子江を横断している。戦国時代より部分的には開削されてきたが、文帝煬帝がこれを整備した。完成は610年。運河建設は人民に負担を強いて隋末の反乱の原因となったが、運河によって政治の中心地華北と経済の中心地江南、さらに軍事上の要地涿郡が結合して、中国統一の基盤が整備された。この運河は、その後の歴代王朝でもおおいに活用され、現在も中国の大動脈として利用されている。

目次

建造の背景

西晋の滅亡以後、中国は300年近い年月にわたって南北に分裂していた。南北がなかなか統一されない原因として、淮水長江の間に網の目上に走る小河川が進軍の足を鈍らせることにあり、曹操が敗北した赤壁の戦い苻堅が敗北した水の戦いなども、北の騎馬軍団が南の水軍に敗れたという側面がある。

煬帝の開削

(1)〜(4)が大運河。青は文帝が建設した大運河、赤は煬帝が建設した大運河。 (1)=永済渠 (2)=通済渠 (3)=山陽瀆(邗溝) (4)=江南河

北周から禅譲を受けてを建国した楊堅(文帝)は、この問題を解決するために587年に淮水と長江を結ぶ(かんこう)[1]を開鑿し、589年を滅ぼして、南北を統一した。

604年に二代皇帝煬帝が即位し、翌年より再び大運河の工事が始まる。

まず初めに黄河と淮水を結ぶ通済渠(つうせいきょ)が作られ、続いて黄河と天津を結ぶ永済渠(えいせいきょ)、そして長江から杭州へと至る江南河が作られ、河北から浙江へとつながる大運河が完成した。完成は610年のことで、その総延長は2500キロメートルを越える。

通済渠の工事には100万人の民衆が動員され、女性までも徴発されて5か月で完成した。これによって、後の人から暴政と非難され、更にこの運河を煬帝自身が竜船(皇帝が乗る船)に乗って遊覧し、煬帝が好んだ江南へと行幸するのに使ったことから、「自らの好みのために民衆を徴発した」などとも言われるようになる。

大運河は一から全てを開削したわけではなく、既存の小運河を連結した部分がかなりある。また大運河の建造は南北の統一を確かなものとし、江南の物産を河北にもたらした[2]。永済渠建設の目的は高句麗遠征(麗隋戦争)であった。

開削の効果

大運河が開通したことによって、経済的に優越していた南が北と連結し、中国全体の流通が高まった。その経済的・文化的・政治的な影響は計り知れない。また、大運河の建設に多くの人々を動員して苦しめたことを隋朝打倒の大義名分の一つとして建国した唐王朝こそが、実は大運河からの最大の受益者であった。地元の生産力では支えきれなくなった首都長安の食糧事情を安定させることができたのも、大運河による物資の運送能力によるところが大きかった。

『清明上河図』(一部)

開封は永済渠と通済渠の結節点として中国の南北を結び、黄河によって東西とも結ばれていたので経済的な重要性が高まり、五代十国時代より北宋の首都として繁栄した。開封城では城内を運河が貫通しており、長安のような大規模な直交道路は姿を消したが、入り組んだ大小の街路には各種の飲食店や酒店などが軒を連ねるなど、その商業は隆盛をきわめた。当時の運河周辺の都市の繁栄の様子は『清明上河図』(張択端画)に活き活きと描かれている。

衰退と新経路による開削

蘇州の京杭大運河
天津の海河の起点。衛河下流を利用して黄河と天津を結ぶ南運河と、温榆河を利用して天津から北京へと結ぶ北運河(いずれも京杭大運河の一部をなす)がここで合流し、海河となって渤海に流れる

しかし、が華北を占領して南宋と対立するようになると、大運河の流通も激減し、整備もされなくなってさびれてしまった。その後、が中国大陸を征服すると、江南から首都の大都北京)への近道として済州河と会通河が開かれた。つまり、いったん開封を経由して北京に至るそれまでのルートが不便だったため、杭州から北へ進み天津へとつながるルートが開かれたのである。元代には海運が発達し、対外貿易を主にしていたので、従来に比べると大運河の重要度は落ちていたが、この新しいルートは都市北京の重要性を高める効果があった。

明代に入り、永楽帝によって北京に遷都されると、再び大運河の重要度が増した。明は海禁策(貿易禁止、海上交通の禁止)を採っていたので、再び内陸水運が見直され、また新たに運河が開鑿された。杭州から北へ進み、淮安徐州済寧滄州→天津とつながる運河ができて、これが現在の大運河となった。海禁策を採用した明・では、大運河を維持することが国都にとって死活的な重要性をもっており、南河総督漕運総督など大運河を管轄する重要な役職や役所が置かれた。

末に開国し、再び貿易が活発化すると大運河の重要度は落ち、地方的な交通路となったが、中華人民共和国成立後は再び整備が行われ、2000トン級の船が通航できるように改修工事が行われている。ただし黄河以北天津まではその限りではなく、土砂の堆積により干上がる箇所も多く放棄されている。




  1. ^ 山陽(さんようとく)ともいう
  2. ^ 布目潮渢, 栗原益男『隋唐帝国』講談社, 1997, p.48. ISBN 4-06-159300-5.


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