しんこう‐おう〔‐ワウ〕【真興王】
真興王
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真興王(しんこうおう、534年 - 576年)は、新羅の第24代の王(在位:540年 - 576年)であり、姓は金、諱は彡麦宗または深麦夫。『北斉書』には金真興として現れる[1]。父は先代の法興王の弟の立宗葛文王金仇珍、母は法興王の娘の只召夫人。王妃は朴氏の思道夫人。540年7月に先王が死去し、彡麦宗が7歳[2]で王位について、王の母が代わりに政務をみた。成年してからは積極的に領土拡張を進め、新羅の国力を飛躍的に拡張させた。
- ^ 河清四年(565年)二月甲寅、詔以新羅國王金真興為使持節・東夷校尉・樂浪郡公・新羅王。(『北斉書』巻7・武成紀)
- ^ 『三国遺事』紀異・真興王条には、15歳で王位について王母が摂政したとする。ただしこのことについては、15歳であれば摂政は必要ではないだろうから、即位したときの年齢は7歳とするのが正しいと考えられている。(→井上訳注1980 p.126)
- ^ 532年の時点で異斯夫が滅ぼした伽耶は金官伽耶(慶尚南道金海市)であり、562年に制圧したのは伽耶は大伽耶(慶尚北道高霊郡)である。
- ^ 『三国史記』新羅本紀・真興王紀の原文には完山州と記されているが、州治を比斯伐(慶尚南道昌寧郡)としていたり、完山州(州治は全州、全羅北道)は当時は百済の支配下であるため、下州の誤記であると見られている。(→井上1980 p.127)新羅の州の一覧については新羅#九州を参照。
- ^ 小京の設置、役割については新羅#五小京を参照。
- ^ 八関会については、『三国史記』新羅本紀・真興王紀には572年のこととするが、居柒夫伝で恵亮に言及した箇所では551年からそれほどたっていない時期に催されたものと記している。
- ^ 『三国遺事』興法・原宗興法条には、法興王が出家してからの名を法雲、号を法空とし、法興王妃、真興王、真興王妃がいずれも出家して法雲と号したとする僧伝のあることを伝えるが、疑わしく混同が甚だしいと批判している。
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