定康王とは? わかりやすく解説

定康王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/15 09:10 UTC 版)

定康王(ていこうおう、生年不詳 - 887年7月28日)は、新羅の第50代の王(在位 : 886年 - 887年)であり、姓は金、は晃(こう)。第48代景文王の次男[1]であり、先代の憲康王の同母弟。母は第47代憲安王の娘の文懿王后[2]。886年7月5日に先代の憲康王が死去し、その子ども(後の孝恭王)がまだ1歳に満たなかったので、王弟の晃が王位に就いた。


  1. ^ 三国遺事』王暦では閔哀王(第44代、在位 : 838年 - 839年)の同母弟と記しているが、在位年に50年の開きがあるので、『三国史記』新羅本紀・定康王紀による系譜が正しいとされている。→井上訳注1980 p. 387 注36.
  2. ^ 『三国史記』新羅本紀・憲康王紀による。また、『三国遺事』王暦・憲康王条では、憲康王の母を文資王后とする。
  3. ^ 『三国史記』新羅本紀・真聖女王即位紀の分注には崔致遠の『文集』第二巻「謝追贈表」を引用して、憲康王の死去を光啓3年(887年)とし、その後を継いだ定康王もまた1年と経たないうちに死去したという。分注はさらに「定康王晃は光啓3年に薨去した。本紀には2年に薨去したとしている。どちらが正しいのかわからない」と続けている。なお、新羅本紀の憲康王紀の末文(「秋七月五日。薨。諡憲康。葬菩提寺東南。」)と定康王紀の末文(「秋七月五日。薨。諡定康。葬菩提寺東南。」)とは、諡の一部を違えるだけで残りは一致している。
  4. ^ 定康王陵に比定される陵墓(史跡第186号)は、先代の憲康王陵(史跡第187号)と並んでいる。


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