から【加羅/伽羅】
読み方:から
⇒加耶(かや)
伽耶
(加羅 から転送)
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伽耶(かや、伽倻または加耶とも)、加羅(から)、または加羅諸国(からしょこく)は、1世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国々を指す。後述のように、広義の任那に含まれるが狭義の任那とは位置が異なる。以下、本文上は加羅で統一する。
註釈
- ^ 永楽10年(400年)条
- ^ 『日本書紀』(720年成立)崇神天皇条から天武天皇条にかけて「任那」が多く登場する。欽明天皇23年の条には、加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しにき)、多羅国(たら)、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他国(こた)、散半下国(さんはんげ)、乞飡国(こつさん、さんは、にすいに食)、稔礼国(にむれ)の十国の総称を任那と言う、とある。
- ^ 438年条には「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記
- ^ 『翰苑』新羅条で「任那」が見え、その註(649年 - 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされた」とある。
- ^ 『通典』辺防一新羅の条に「加羅」と「任那諸国」の名があり、新羅に滅ぼされたと記されている
- ^ 巻1000
- ^ a b 上垣外憲一『倭人と韓人』 講談社学術文庫2003年,39-41頁
- ^ 石丸あゆみ、「朝鮮半島出土弥生系土器から復元する日韓交渉 : 勒島遺跡・原ノ辻遺跡出土事例を中心に」『東京大学考古学研究室研究紀要』 2011年3月 第25号 pp.65-96, NCID AA11190220, 東京大学大学院人文社会系研究科・文学部考古学研究室
- ^ 宋讃燮、洪淳権(著)「概説 韓国の歴史 (世界の教科書シリーズ)(世界の教科書シリーズ(9))」藤井正昭(訳)ISBN 978-4750318424
- ^ 浜田耕策 (2005年6月). “共同研究を終えて” (PDF). 日韓歴史共同研究報告書(第1期) (日韓歴史共同研究): p. 375. オリジナルの2020年7月15日時点におけるアーカイブ。
- ^ 韓国の旅-金海博物館-
- ^ a b c d e 広開土王碑文
- ^ a b 三国史記
- ^ 南斉書での表記は加羅。伽羅(高霊)
- ^ 三国史記中の靺鞨とは、殆どの場合濊貊を指している。
- ^ 大伽耶王陵展示館
- ^ 伴跛の現在地はかつては星州郡だと考えられていた。
- ^ 卓淳の現在地はかつては大邱広域市だと考えられていた。
- ^ a b c これまで全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている(國學院大學「韓国全羅道地方の前方後円墳調査」)。1983年に慶尚南道の松鶴洞1号墳(墳丘長66メートル)が前方後円墳であると嶺南大学の姜仁求教授が実測図を発表した(『歴史通』2014年1月号 ironna)。姜仁求教授によると、全長66メートル、後円径37・5メートル、前方部が若干丸みを帯びているが、円墳2基ではなく前方後円墳であるという。後円部上に石材が露呈するが、それは鳥居龍蔵が1914年に発掘した竪穴式石室の一部である。(『韓国の古代遺跡 2百済・伽耶篇』中央公論社、ISBN 978-4120016912)。後の調査により、松鶴洞1号墳は、築成時期の異なる3基の円墳が偶然重なり合ったもので前方後円墳ではないとする見解を韓国の研究者が提唱した(沈奉謹編『固城松鶴洞古墳群 第1号墳 発掘調査報告書』東亜大学校博物館、2005年)。しかし、松鶴洞1号墳は、日本の痕跡を消すために、改竄工事を行った疑惑が持たれている(『歴史通』2014年1月号 ironna)。森浩一によると、1983年に訪ねた際はダブルマウンドが丘陵上に造営されており、前方後円墳であることに躊躇なく、その後鳥居龍蔵が戦前に撮影した側面写真が発見されたことで確認できたが、その後、現在の形が近年の変形であるという噂話があったが、その噂話が意図的に流されていると感じていたという。松鶴洞古墳の発掘は、「発掘もある種の遺跡の破壊」という考古学の事例であり、近年の変形を示す兆候は存在しないが、原形がダブルマウンドなのかの前提を抜いて、円墳連続説が発掘開始直後から提出され、結論ありきの結果が流布されており、「これは学問の手順として明らかに間違っているし、学問の名において文化財を変形・改変することになる。」と批判している。これに関して1996年撮影写真は前方後円墳であったものが、2012年撮影写真では3つになっているという指摘がある(出典に写真あり『歴史通』2014年1月号 ironna)
- ^ a b 李 2005, p. 228
- ^ 『朝鮮史』巻2第3編第6章、p24-p25
- ^ 「加羅の起源続考」『史学雑誌』5編3号、p68
- ^ 『朝鮮史』巻2第3編、p24-p25
- ^ 李 2005, p. 234
- ^ 「朝鮮の古伝説考」『史学雑誌』5編12号、p15-p16
- ^ a b c d e f 中央日報 2004
- ^ [1]
- ^ 大型土器、埋葬習俗…北部九州文化の確かな足跡
- ^ 韓国勒島出土人骨に関する形質人類学的研究
- ^ a b http://yayoi.senri.ed.jp/research/re11/KKim.pdf
- ^ a b http://japanese.joins.com/article/024/139024.html
- ^ 鄭大均『日本のイメージ』中央公論社〈中公新書 1439〉、1998年10月。ISBN 978-4121014399。p177
- ^ a b c d 井上2004 pp.106-107.
- ^ 韩日“共同研究历史”分歧大 https://archive.md/hdCZE.
- ^ 宮脇淳子は、「かつて朝鮮半島南部にあった『任那日本府』とはどういうものであったかというと、商業ルートの洛東江沿いに建設された都市同盟である『任那』諸国の中に、倭人の『将軍府』、つまり軍団司令部と屯田兵部落があったと考えられる。」とする。宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国』PHP研究所〈PHP新書 387〉、2006年2月。ISBN 978-4569648804。
- ^ 従来、日本軍の改竄の可能性があるとされてきたが、2006年4月に中国社会科学院の徐建新により、1881年に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表された。
- ^ 自倭背急追至任那加羅從拔城城即歸服安羅人戍兵拔新羅城鹽城倭寇大潰城内逃拔城安羅人戍兵
- ^ 井上秀雄「古代朝鮮」講談社学術文庫、2004年,85頁
- ^ 國學院大學「韓国全羅道地方の前方後円墳調査」。他韓国報道等の資料 [2][3]
- ^ 門田誠一「韓国古代における翡翠製勾玉の消長」『特別展 翡翠展 東洋の神秘』2004、及び『日本考古学用語辞典』学生社
- ^ 早乙女雅博/早川泰弘 「日韓硬玉製勾玉の自然科学的分析」 朝鮮学報 朝鮮学会
- ^ 『三國史記』列傳 第一:金庾信 上
- 金庾信 王京人也 十二世祖首露 不知何許人也 以後漢建武十八年壬寅 登龜峯 望駕洛九村 遂至其地 開國 號曰加耶 後改爲金官國 其子孫相承 至九世孫仇亥 或云仇次休 於庾信爲曾祖 羅人自謂少昊金天氏之後 故姓金 庾信碑亦云 軒轅之裔 少昊之胤 則南加耶始祖首露 與新羅同姓也
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