下流域の新田開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 23:49 UTC 版)
「蒲生川 (鳥取県)」の記事における「下流域の新田開発」の解説
蒲生川と小田川の合流地点にある太田地区では、江戸時代には蒲生川を堰き止める築堤(太田堰)があった。山陰では一般に冬の強い偏西風で海から川へ砂があがってきて河口を閉塞したり川床が上昇し、水流が滞って氾濫を招くことが多く、冬の間は太田堰で水を貯め、水路へ放流して水路が砂で埋まるのを防ぐ目的があった。 下流域の大谷沢は、2つの大きな沼沢地だった。1711(正徳元)年から埋め立てがはじまり、100年以上をかけて新田開発が続けられた。新田は盛んに新田開発を行った和田徳兵衛(和田得中)の名をとって「和田新田」や「大谷田圃」などと呼ばれた。1815(文化12)年頃には300石弱の石高が得られるようになっていたが、劣悪な沢田も残されていた。蒲生地区や新井地区では条里制を伝える整然とした区画になっているが、この大谷田圃付近では区画が整っていない。
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