その歴史
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上記のように日本への渡来は江戸時代中頃までと考えられ、類似のシュロチクはそれより前に入っていたらしい。当初はこれらはよく混同され、やがて後者が日本産のシュロに似ていることからその名で呼ばれるようになり、本種は渡来元の名を引き継いだ。当初は庭植えが行われ、そのために南の温暖な地域のみで育てられたものが、やがて鉢植えで鑑賞するようになり、各地に広まった。江戸時代にはすでに斑入り品種が記録されている。大正時代の後期には栽培技術も進歩し、新たな斑入り品種の発見もあって人気が高まり、昭和初期には大人気となり、値段が高騰した。栽培者や商人も増え、台湾などからの輸入も増加した。 第二次大戦でひとまず沈滞期に入るが、昭和24年から26年にかけて再び価格が高騰した。それがひとまず沈静した後、昭和40年代には新たな銘品が続々と現れ、当時の経済状況の影響もあって、投資の対象としてこれらを見る向きが出現した。この頃の品種数は約70といわれる。しかし昭和43年にはそれら高級品種の値も大幅に下落し、それ以降は一般の手の出せる観葉植物となっていった。 ちなみにガーデンライフ編(1967)はこの最後のブームのさなかの出版とあって、この頃の熱気を垣間見ることが出来る。この書には当時の価格が表記されており、これは葉が5-6枚ある株分けで作った子苗の上等のものとのことで、安い方では「小達磨」が\500、普通に高価なもので「愛国殿」が\40000などとある中に、「達磨の縞」が\15,000,000などというのが見つかる。さらに「天山の縞」は\30,000,000、これについては昭和36年に和歌山の園芸家が見つけ出し、それを確認した専門家が顧客の事業家に声をかけると数百万で買い取り、それが株分けで増えてこの時点で10数株、それがこの価格であるとのこと。 このような流れの中で規模の大きい栽培業者も現れ、業界団体として『日本観棕竹連盟』が昭和13年に、これを引き継いで『日本観棕竹聯合会』が昭和16年に、さらに全国組織として昭和22年に『日本観棕会』が京都で発足した。
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その歴史
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享保9年(1724年)、五同志が懐徳堂を設立。三宅石庵を学主に迎える。 享保11年(1726年)、石庵の弟子中井甃庵の奔走により、懐徳堂が江戸幕府から公認され官許学問所となる。甃庵は懐徳堂の預人(事務長に相当)に就任。 享保15年(1730年)、石庵が没し、甃庵が預人を兼任したまま二代学主に就任。 宝暦元年(1751年)、老朽化した学舎を改築。 宝暦8年(1758年)、甃庵が没し、石庵の息子三宅春楼が三代学主、甃庵の息子中井竹山が預人となる。 明和4年(1767年)、竹山の弟中井履軒が独立し、私塾水哉館を開く。 天明2年(1782年)、春楼が没し、竹山が預人を兼任したまま四代学主に就任。 寛政4年(1792年)、火災により懐徳堂全焼。同8年(1796年)に再建。 寛政9年(1797年)、竹山が隠居し、子の中井蕉園が預人に就任。 享和3年(1803年)、蕉園が没し、子の中井碩果が預人に就任。 文化元年(1804年)、竹山が没し、碩果が預人のまま懐徳堂教授に就任。 文化14年(1817年)、並河寒泉(竹山の孫)が預人に就任。 天保3年(1832年)、中井桐園(履軒の孫)が碩果の養子となり、寒泉が懐徳堂を退去。 天保11年(1840年)、碩果が没し、寒泉が教授、桐園が預人に就任。 明治2年(1869年)、懐徳堂閉校。
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その歴史
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最高地点は2206mのハーニー山。少なくとも紀元前7000年頃からインディアンたちが散在した。アリカラ族が1500年頃に到達し、そのあとからシャイアン族、クロウ族、カイオワ族、ポーニー族が現れ住み着いた。スー族(ラコタ)が18世紀にミネソタからやって来て、他の部族を追い出し、パハ・サパ(黒い丘)と名づけ、自然崇拝で偉大な精霊の宿る聖地として崇めた。
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その歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 13:49 UTC 版)
元々アパッチは、南部大平原でバッファローなどを狩る平原部族だったが、コマンチ族の南下によって徐々に南西部へ追いやられ、リパン・アパッチ(英語版)と、カイオワ族と同盟を組んだカイオワ・アパッチ(英語版)のみが平原部に残り、あとの支族は乾燥したアリゾナ州の南東域とメキシコ南西域を移動する略奪部族となった。カイオワ・アパッチはオクラホマ州、リパン(英語版)はニューメキシコ州とメキシコ、ヒカリヤ(英語版)はニューメキシコ州とコロラド州、メスカレロ(英語版)はニューメキシコ州とメキシコ、チリカワ(英語版)(チリカウア)はアリゾナ州のチリカワ山地とニューメキシコ州、西アパッチ(英語版)はアリゾナ州東部を、それぞれ占領していた。 彼らは矢を射る際に、人差し指と親指で矢羽をつまむのではなく、中指と薬指の間で弦ごと矢羽を挟んで射た。また、彼らの弓はバッファローの腱を膠(にかわ)で何層にも塗り重ねていて、比類のない強靭さを持っていた。このため、他部族よりも素早くしかも強力に矢を射ることが出来、戦闘力で圧倒していた。 彼らは乾燥した灼熱の岩山を好んで根城にし、その襲撃方法も地形を利用した山岳ゲリラというべきものだった。また、彼らは健脚で知られ、馬は移動手段というよりむしろ食料だった。戦士たちは口に水を含んで山々を駆け巡り、戻ってきたときに口の中の水が減っていれば失格とする厳しい訓練を積んだ。こうして灼熱の中で水を見ても無視できるほどの忍耐力と持久力を身につけていた。 伝統的に好戦的で、領土に入りこむ異民族を襲撃した。南西部での彼らの抵抗による入植者数人の死者は、東部では情報操作されて数百人の死者となって大げさに伝えられ、白人達を怖れさせ、残虐な部族として語り継がれている。 また、しばしばメキシコに入り、略奪を繰り返した。メキシコ軍も、深山渓谷に分け入り逃げるアパッチを見ては諦めざるをえなかった。19世紀のアパッチ族に対する記録には、「どう見ても山賊という風情である」と残されている。彼らは他部族の子供をさらい、サンタフェでメキシコ人や白人相手に奴隷として売りつけた。商談が不成立となり、その場で子供たちの喉笛をナイフで切って殺してしまったという記録が残っている。 ヨーロッパからの移民(いわゆる白人)に対しても絶えず、強力で好戦的な部族であり、アパッチの有名な指導者として知られるコチーズ、マンガス・コロラダス、そしてジェロニモなどは、敵対したアメリカ陸軍やメキシコ陸軍から、獰猛な戦士、また熟練した戦略家として知られている。 こうした苛烈な戦士集団としては、保留地での生活など退屈極まるものであった。白人のアパッチ掃討戦に、保留地からアパッチ族が斥候として参加したことは、抵抗派のアパッチにとっても理にかなった行為と受け入れられたほどである。 最終的な降伏は1886年で、現在、アパッチはアリゾナ州やニューメキシコ州、オクラホマ州の特別保留地に居住し、その数は5000から6000とされている。 メキシコ国境付近では、1930年代まで一部アパッチによる襲撃があった。
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