クレシーの戦い
クレシーの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 15:22 UTC 版)
「エドワード3世 (イングランド王)」の記事における「クレシーの戦い」の解説
エドワード3世率いるイングランド軍は1346年7月にポーツマスからノルマンディーのサン=ヴァースト=ラ=ウーグに上陸した。イングランド軍は道中ひたすら破壊と放火と略奪を繰り返す長距離進軍によって敵軍を挑発して合戦におびき出す「騎行(Chevauchée)」と呼ばれる行軍方法でノルマンディーを横断したのち北上して1カ月で350キロも踏破した。 この挑発に乗ったフランス王フィリップ6世はフランス軍を率いて迎撃に出た。イングランド軍はポンティユー伯領のクレシー郊外においてエドワード3世率いる本隊、エドワード3世の長男エドワード黒太子や第11代ウォリック伯トマス・ド・ビーチャムの率いる隊、ノーサンプトン伯ウィリアム・ド・ブーン(英語版)の隊の3隊に分かれて布陣し、8月26日に両軍が激突してクレシーの戦いが発生。戦いはイングランド軍の大勝に終わった。これは長弓部隊による勝利とも、長弓というよりもイングランド軍が防御的陣形を取り、それを維持したためとも言われる。 エドワード3世の息子である黒太子はこの戦いが初陣だった。ウォリック伯の補佐を受けていたとはいえ、黒太子の勇戦はイングランドのみならずフランスにもその武名を轟かせることになった。この戦いでエドワード3世が最も悔やんだのはフランス軍側の身分の高い者が大勢戦死してしまい、捕虜にして身代金を得る機会を逃したことだったという。 クレシーの戦い直後の9月からカレーの包囲をはじめ、翌1347年までにここを陥落させ、8月4日にはエドワード3世がカレーに入城した。エドワード3世はカレーの維持を重視していたので、征服軍の当然の権利と考えられていた破壊や略奪からカレーを守るとともに、輸出羊毛指定市場(英語版)をカレーに移させた。これはカレーを経済的に自立させるのが目的だった。カレーはこの後百年戦争を超えてメアリー1世の時代の1558年に失われるまでイングランド領であり続ける。 また1346年10月17日には第2代ネヴィル男爵(英語版)ラルフ・ネヴィル(英語版)と第2代パーシー男爵(英語版)ヘンリー・パーシー(英語版)率いるイングランド軍がネヴィルズ・クロスの戦いにおいてデイヴィッド2世率いるスコットランド軍を破り、デイヴィッド2世を捕虜にすることに成功した。以降デイヴィッド2世は11年にわたって捕虜となり、その間スコットランドの国政はロバート1世の娘の子である執事卿ロバート・ステュアート(後のロバート1世)が主導するようになった。 ブルターニュ方面でも1347年6月20日のラ・ロッシュ=デリアンの戦いでトマス・ダグワース(英語版)率いるイングランド軍がブロワ伯を捕虜にする勝利を収めた。 1347年9月28日にはローマ教皇の仲裁によって1355年6月までを期限とする休戦協定をフランスとの間に締結した。
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