たいか‐の‐かいしん〔タイクワ‐〕【大化の改新】
大化の改新 (たいかのかいしん)
大化の改新
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大化の改新(たいかのかいしん)は、皇極天皇4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮の乙巳の変(蘇我入鹿の暗殺による蘇我氏の滅亡)に始まる一連の国政改革[1][2][3][4]。狭義には大化年間(645年 - 650年)の改革のみを指すが、広義には大宝元年(701年)の大宝律令完成までに行われた一連の改革を含む[1][2][3]。改革そのものは、中大兄皇子・大海人皇子の年若い両皇子の協力によって推進された。
- 1 大化の改新とは
- 2 大化の改新の概要
大化の改新
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 06:57 UTC 版)
第三十五代天皇として即位したのは皇后の宝皇女だった(皇極天皇)。この頃に蘇我入鹿が聖徳太子の子の山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼすなどの事件が起き、蘇我氏の専横が目立つようになった。これに不満を持った中大兄皇子(葛城皇子、後の天智天皇)・中臣鎌子(藤原鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し蘇我蝦夷を自殺に追いやった。645年の乙巳の変である。こうして蘇我氏に権力が集中する半世紀続いた体制は崩れたが同時に天皇もまた退位を余儀なくされた。 第三十六代天皇として新たに即位した先帝の弟の軽皇子(孝徳天皇)は646年に改新の詔を出して難波宮で次々と改革を進めていった(大化の改新)。大臣が左大臣・右大臣・内大臣の3人に増員されたのもこの時期である。しかし中大兄皇子と不和になった天皇は孤立し、臣下がいなくなった難波宮で654年に寂しく亡くなった。 第三十七代天皇となったのは重祚した宝皇女だった(斉明天皇)。多くの土木工事を行った天皇だったが大鷦鷯天皇の頃とは違って民衆の負担にしかならず悪評を残すことになった。中大兄皇子の主導で百済復興に助力するため朝鮮半島へ出兵する途中で天皇は崩御、残された中大兄皇子は白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗した。このことで各地に城が築かれ都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。
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大化の改新
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「日本の歴史 (テレビ番組)」の記事における「大化の改新」の解説
映画として紹介。「歴史チューブ」内に映画館鑑賞のセットが組まれている。 中大兄皇子 - 小橋賢児 中臣鎌足 - 河相我聞 蘇我入鹿 - 永澤俊矢 蘇我倉山田石川麻呂 ‐ 鶴田忍 脚本:広田光毅 演出:小林義則(ドラマ制作センター部長)
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大化の改新
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645年、難波宮で行われた大化の改新時、日本という国号と共に最初の元号である大化が正式に定められた。
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大化の改新
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 15:09 UTC 版)
上山春平は著作「天皇制の深層」で、大化の改新は氏姓制から律令制への変革が行われた「神祇革命」、と記した。朝河貫一は大化改新は日本封建制の起源で、大化改新と明治維新を「日本史における二つの革命」と呼び、優れた異文化を受け入れた、と記した。
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「大化の改新」の例文・使い方・用例・文例
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