三省堂 大辞林 |
たいら-のまさかど たひら― 【平将門】
(?-940) 平安中期の武将。通称、相馬小二郎。父は良持とも良将とも。935年、所領争いなどから叔父国香を殺し、一族との抗争を招く。また、土豪間の紛争に巻き込まれて、しばしば兵を動かす。常陸・上野・下野の国府を占領するに至って東国に独立国家を作る野望を抱き、下総猿島郡石井(いわい)に王城を営んで百官を置き、新皇を称したが、平貞盛らに討たれた。
江戸人物事典 |
平 将門 (たいらの まさかど)
| 〜940 (??年〜??年) |
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【武将】 新皇と称し、関東の独立を目指した武将。 |
| 平安中期の武将。下総国の人。相馬小二郎とも。上洛して藤原忠平に仕えたが、希望が叶えられず憤慨して関東に戻った。同族内の領地争いから伯父の国香を殺し、武蔵国や常陸国の紛争に介入するなど、関東に勢力を拡げた。自ら新皇と称し文武百官を置いて、関東独立を図ったが、朝廷の追討軍との争いに破れた。一説に京都で処刑され、首が飛び帰って葬られたのが、大手町将門首塚とされる。神田明神などに祀られている。 |
年(和暦) |
人物名 |
近代文学作品名辞典 |
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平将門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/05 13:07 UTC 版)
平 将門(たいら の まさかど、-將門)は、平安時代中期の関東の豪族である。
- ^ 勺を逆さに持たすなど作法に反し意図的である。没後しばらくして将門の娘が建立したとされる茨城県坂東市の国王神社の木造平将門像(茨城県指定有形文化財、国王神社神体)とは、肩や筋骨質の体つき、目の大きさ、顎の形等、印象がかなり違う。
- ^ 赤城宗徳 平将門 角川選書 196P
- ^ 一部の書籍(特に児童・生徒向けに書かれた物では疑問符付き)で903年とするが、これは将門が火雷天神(菅原道真)の生まれ変わりとするとの伝承からきていると考える者もいる。梶原正昭は、将門が反乱を起こした際に藤原忠平に宛てた書状の中に「(私こと将門は)少年時代にあなた様の家臣となって以来数十年云々」という意味の記述があることから、数十年を40年と仮定すると将門が忠平の家臣となったのは899年頃、その頃の将門の年齢は15~6歳であろうか、との可能性を示唆している(梶原正昭『将門記2』 平凡社 東洋文庫 1976年)。
- ^ 『尊卑分脈脱漏』『坂東諸流綱要』等によると、「犬養春枝女」または「県犬養春枝女」となっている。
- ^ 中川克一/至誠堂/明44発行
- ^ 『歴代皇紀』の「将門合戦状伝」には、始め伯父の平良兼との間で争い、次に平真樹なる者に誘われて平国香や源護らと事をかまえるに至ったとしている。
- ^ 『将門記』では「介経基ハ未ダ兵ノ道ニ練レズ。驚キ愕イデ分散ス」と述べられている。
- ^ 『摂政忠平宛将門書状』には、「維幾の子為憲が公の威光を傘に猛威をふるったため、玄明の愁訴によってそれを正そうとして常陸に赴いたところ、為憲と貞盛が示し合わせて戦いを仕掛けてきた。」とある。
- ^ ただし『将門記』では興世王の献策に対して「將門ガ念フ所モ、啻斯レ而巳。(中略)苟モ將門、刹帝ノ苗裔、三世ノ末葉也。同ジクハ八國ヨリ始メテ、兼ネテ王城ヲ虜領セムト欲フ。」と答えたとしているが、この答えは後に出てくる『摂政忠平宛将門書状』の内容とは矛盾する。
- ^ 海音寺潮五郎は『悪人列伝 古代篇』にて、これを将門の無知の証拠として指摘している。
- ^ 『扶桑略記』では、将門の戦死を貞盛の放った矢により負傷落馬し、そこに秀郷が馳せつけ首を取ったとされ、『和漢合図抜萃』では、秀郷の子の千常が将門を射落とし首級をあげたとされている。
- ^ 『将門伝説』(汲古書院、2001年)
- ^ こめかみの「こめ(米)と俵藤太の「俵」を掛け合わせたもの。
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